ひみつ所持のりすくを考える
ホームページをつくるにあたって、しんり実験のひがいしゃがひがいしゃであることを公言するばがなく、まずそれがわたしたちにひつようではないだろうかということをつよく感じています。じんたい実験はしゃかい的なひみつとかんけいし、またそれが、ひがいしゃの心のなかに押しつぶされているじんかくとの強い関わりあっています。なにかひみつであることをかかえることは、そこにつけいられるすきをつくってしまうことになります。わたしじしん、しこう読み取りを受けているときづいてから、これはしらないほうがいい、知らぬが仏だというおもいから、長期間このできごとをおもてにだすことはありませんでした。ひみつを守ろうという力がこころの中でおおきなよくあつの壁のそんざいになってしまいました。しゃかいにおいては、心理技術のあくようがますますおおきなもんだいとなり、そういったひみつをおおいかくすために、てにかえしなをかえ、たいへんなコストがはっせいしています。そのためにしゃかいてきなひずみがますますしんこくになり、テロ、ぎゃく殺のまんえんをおこしています。ひみつしゃかいのせいりつはむりがあります。こじんれべるでは、なにかをせんさくしたり、じょうほうをてに入れることにより、しんりてきなじゃくてんがつくられるかのうせいがあることををあらかじめ察知することがじゅうようだと思います。
びょうどうについて
せんのうやたじゅうじんかくのもんだいをかい決するにはせいいくの起源やほんのう的なりょう域にはいり、つよい恐怖をのりこえてゆくことがひつ要です。たんじゅんなうごきやしゅんかん的はん応がたいせつになってきます。ほんしつてきなぶぶんでにんげんとどうぶつののうはたいさないかもしれません。のうのかいめいによってのうりょくのさなどのちがいはしょうらいなくなってゆくことがかんがえられます。びょうどうしそうにはほんのう的な力にちかづけるかのうせいがあるとおもいます。