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見出しトップタイトル ≪龍得水の人生をエッセー≫

人生をエッセイ  その 4



龍得水の「人生をエッセイ」ページ “その ” には「(31) 家庭の中での序列の是非を問う」から「(34) 先祖供養とお墓の話」までの以下 ≪目次≫ 欄の通り現在(4)編までを掲載しております。

現況、龍得水「人生をエッセイ」集では “そのその ” まで全部で(34)編が掲載中です。

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龍得水の 人生をエッセー
ページ  その 4
≪ 目 次 ≫
       
31 多様性の共有     36 
32 「正義」のすすめ     37 
33 それでも政権交替は必要     38 
34 先祖供養とお墓の話     39 
35      40 
       
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 31 多様性の共有

昔から人それぞれの個性の違いを評してよく言われる例えに、「十人十色(じゅうにん・といろ)」という言葉がある・・・すなわち、人は10人寄れば10通りの個性の違いがあって、1人として同じ人格の者など居ないということであろうか・・・。

このように例えが示す通り、人の思い、感じ方、さらには正邪の基準さえも各人各様に異なるものであり、それが自分にとって何よりも最優先する正義であったとしても、他者からみれば三番目か四番目ぐらいの正義であったり、あるいはぜんぜん異なる真逆の価値観による正義であったりすることもよくあることなのである。

(いにしえ)の昔より今に至ってまで、まさに有史以来にわたって同じ正義の名の下に、個人のレベルでも、それが国家間の争いに至るまで死闘を繰り返して止むことのないのは、この間の消息を如実に表しているとしか言いようがありません。

確かに国には法律があり、人間関係にもマナーとしての一般常識もある・・・、そしてこれらが社会規範としての共通のルール、あるいは認識となって生活基盤に張り巡らされてはいる・・・。

人類はこれら共通の社会ルールを営々と築きながら、個人的にも、また社会的にも進歩してきたはずなのに・・・しかし・・・にもかかわらず・・・に、である。

そもそも人間には一人々々それぞれに個体としての免疫力を有しており、外部からの細菌を含めたあらゆる異物に対してこれを敵とみなし、徹底的に攻撃を加え排除することで自らの「個」としての組織を護る強力な自衛隊?機能を備えている。

すなわちこれは、同じ人間であっても個体としての一個の人間が持つ「内」と「外」との峻別なまでの区別であり、我が身を護るための容赦のない攻撃性が、すでに「DNA」の体内設計図の中で展開されているということである。

ここに個人としての人間の根底を流れている、自身の「個」を護るためのいわば理性を越えた異常なまでの・・・すなわち自らが営々と構築してきた他者との共通のルールまでをも簡単に飛び越えてしまう固有の反応・・・それも相手を完膚(かんぷ)なきまで叩きのめすほどの強い力が潜んで居ると云う他ありません。

そしてその固有の反応を含めて価値観が形成され、個性が成り立っているとするならば、人間一人々々は本然的に他者を相容れない自己中心的な習性を持った、頑固で、防衛本能がすこぶる強い攻撃的な生き物というべきであろう。

それが動物としての人間が本来的に有する “自分だけでも生き残ろう” とする最もシンプルな在るべき姿・・・さらに言えば「強い意志」でもある・・・。

しかし、だからと言って諦めなかったのも同じ人間であり、この共通の社会ルールを少しずつ修正して来た証しとして、その成長の過程の中に現在の民主主義制度も存在しているのやも知れない。

ことほどさように人間一人々々は、驚くほど排他的で、常識を越える思いの違いが活火山のマグマのように心底深くを流れていて、これがときに臨んで思いもかけない形で外に噴き出す生態性としての心の仕組みを、我々人間は長い時間をかけて理性を養うことでこれのコントロールに腐心して来たのである。

すなわち「理性」はある意味「免疫制剤」の働きを促がしているのであり、理性が普遍性を持って積み重なり、熟成することで少しずつ他者を寛容に受け容れる思考回路を確保してきたと言える。

しかし個人の寿命には限りがあって、百年、千年と人生経験を積み、成長、熟成を重ねるわけにはいかないのであり、バトンを引き継ぐにも常に0歳からのスタートを余儀なくし、たかだか50年か80年のスパンでバトンを根気よく繋ぐしかなく、故にその成長は遅々として気の遠くなるほどの時間もかかってしまったのであろう。

そしてこの作業は今後も根気よく続けるしかなく、それはこれからも今までと同じぐらいの長い歴史の時間を刻む位の覚悟が要るということである。

人間が本然的に内と外との峻別な区別の上に己(おの)が生を養っている以上、その価値観の相違が深刻な争いの原点でもあり、それは個々人それぞれが信念的に有する正義でさえも、所詮、各人が各様に抱くそれこそ「多様な正義」でしかないと理解すべきではないのか・・・?。

このとき本エッセーの表題である人間一人ひとりの「多様性」、すなわち各人が各様に主張する正義を・・・自らが主張する正義だけが絶対正義だと過信しない努力こそが肝要であり、そして正義は結構ランダムでもあるという前提に立つことで「多様性」は「共有」されると言える。

それぞれが本然的に有する利己的な攻撃性は、ひょっとして人間の免疫的な防衛本能から由来すると思われるのだが、しかし時としてあらわにする排他的で峻別な価値観の相違を克服するのではなく、むしろこれを共有することで逆に “自分は自分のままで他者との共有” の道も開かれると思うのである。

民主主義とはもともとこのランダムな正義、すなわち各人各様の価値観を「共有」することをベースに成り立っている制度でもあり、多様な価値観を認め、さらに一歩進んでこれを「共有」することこそが民主主義の基本的な精神とも合致するものと信じます。

2009/08/17
2009/08/18 最終加筆

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 32 「正義」のすすめ

「正義」という言葉はそれがゆるぎない唯一の「正しい道理」であるという立場で使用され、そして理解される・・・いわば定義の範囲は狭くして、かつ普遍性を持った言葉の一つであると勝手に思ってきた。
否、そうでなくてはならない数少ない「言葉」でもある・・・と・・・。

しかし現実には意外と立場、立場で都合よく主張されるケースが多く、たとえば社会正義という名の下に使われたり、自己を正当化する正義でもあったり、あるいは一つのグループが理想として目指すところの正義であったりで、その使われ方はかなり広範囲に及び、その概念は曖昧で、かつ都合よく使い回されていることに今更ながら妙な納得と、驚きと、失望が交錯して複雑な心境にならざるを得ない・・・。

この自分が信じる、あるいは信じさせられる?「正義」の使われ方の広範囲さ故であろうか、逆にセクト、セクトの我田引水的な「都合のよい正義」が雨後のタケノコのように林立し、“自らが信じる正義のみが真の正義” であって、“他は全て不正義である” と、お互いが断罪し合う「正義の奪い合い?」から、果ては血で血を争う闘争と憎しみの連鎖へとエスカレートする・・・。

このことはボクが本エッセーの中でも再三、再四申し述べてきたことであり、現代に至るまでの長きに亘る人類の歴史が如実にそれを証明しており、今更多言を要しない厳然たる事実である。

云うならば・・・「正義」が・・・あるいは「正義」は・・・揺れている?・・・のである??
すなわち普遍的であるべきはずの「正義」が、その普遍性の着物を着て逆に狭義(きょうぎ)の利益の為に使い回されている・・・しかも普遍的な「正義」の名の下に・・・。

そもそも「正義」とは何ぞや・・・?
我々は「正義」という概念をどう定義し、これをどう理解すればよいのか?・・・??

「正義」という字義を辞書的に解釈すれば「正しい道理」ということになろうが、これではあまりにも漠然としていて、何をもってそれが「正しい道理」と理解すればよいのか?・・・と、思ってしまう。

しかしこれをもう少し具体的に個人のレベルでどう定義すればそれが「正義」と言えるか?・・・と、さらに辞書的に注釈を加えれば、それは「人が当然なすべきみち、あるいは規範を、正しく護り行動すること」と、云うことになる。

これをさらにウィキペディア(フリー百科事典)で見てみると、

   (1) 物を正しく配分する意の正義。
   (2) 混乱した状態を正しく回復する意の正義。
   (3) 物を正しい価値で交換する意の正義。

と、3通りの解説、注釈がされており、これらはいずれも公平・公正さを保障する正義であって、国を統治するために必要欠くことの出来ない政治的な正義でもある。

ここまで正義を考えてくると道徳的な人間性を語る正義と、一個の人間としての権利と義務を高らかに謳(うた)う民主主義制度そのものの根幹をなす正義とも相通じるものであり、正義という言葉の意味合いそのものがもともと自らの主義主張の正当性を謳う政治性の強い概念でもあることに気付くのである。

しかし問題なのはそのとき公平・公正の正義が本当の意味で誰にでも担保されているのか、いないのかで結果的に正義が大きく揺れてしまうのであろう・・・。

それが個人としての主義主張であれ、あるいは国家としての主義主張であっても・・・である。

詰まるところ正義を語る上で一番大事なことはその正義に「公正・公平」が普遍性をもって貫かれているかどうかであって、動物としての人間が本然的にもっている自らが生き抜くための絶対的な我がまま・・・「本能」と言った方が分かり易いかもしれないが・・・その本能だけでは生まれない自分という自我と自分以外の相対的な概念が公正・公平の考え方といえる。

この “自分だけ”・・・というシンプルな価値観から、自分は最も大切だが “他者も”・・・と、考えた瞬間から人間は動物から半歩「神」なる者?・・・に近付いたのであり、同時に自分と他者を “自分を含めた他者” という価値観で捉(とら)え、ここに自分に対しても、そして他者に対しても公正・公平であるべき概念としての「正義」が政治的に確立したというべきなのかもしれない。

すなわち事の大小、それが個人であれ、グループであれ、たとえ国家であったとしても、正義という概念で一番大事なのは「公正・公平」の理念なのであって、これこそが色々な使われ方をされている“揺れる正義”のバックボーンを成すもので、逆に他者に対してこの公正・公平が十分に担保されない正義は、その瞬間、単に自らの立場を正当化するだけの主義・主張に過ぎないと、明確に区別されるべきであろう。

そしてその「明確な区別」が、何時でも個人的に判断出来るように教育することが今回のテーマでもある「正義のすすめ」であって、“これこそが唯一絶対の正義である” と、声高に唱(とな)える正義は既に他者を排除した、明らかに「公正・公平」の理念とは相容れない「我儘な正義」として、これを本来の正義と明確に区別できる教育が真に求められる「正義の教え」ではなかろうか・・・?

云うならば「公正・公平」の理念がベースとなって “揺らぐ正義” が始めて普遍性をもってその正義が確立されるのであり、さらに云えば、これが今回はからずも政権交代によって発足した鳩山新総理の言うところの「友愛」を育(はぐく)む素地ともなる、いわば同根の意味合いがあるのではないかと思うのだが・・・。
もっとも鳩山さんが実際にそのような意図の下で発言されたかどうかは定かではないが・・・??。

「公正・公平」を担保した「正義」・・・・・。
ここに至ってはじめて民主主義という人類が長い年月をかけて編み出したこの制度の現在の立ち位置と、将来の展望も開けてくるのではないかと思うのです。

個人であれ、それが国家であっても「正義」の要諦は「公正・公平」をどう護り抜き、そして実践していくかであり、それこそが個人の人格としての正義感を形成し、そしてそれがさらには社会正義を実現するための原動力となるのである。

これが正しく実践されていれば皆が寄ってたかって一人の人間を苛(いじ)め倒すなどという卑怯な行為そのものが、最も公正・公平の理念からほど遠い「恥ずべき行為」であることに思いを致す「公正・公平の正義」が皆の心の中で作動するのではないか・・・?と、期待を持つのである。

さらに言えば、近年世間を仰天せしめた「オウム真理教」の唱えた「正義」を自分なりに考え、検証した場合、結果論ではあるが彼らが声高に謳い上げた「正義と理想」はオウム真理教を信奉する信者にとっての正義と理想であって、それが絶対化するに及んだとき、信者以外の人達をただの「愚民」として切り捨てたのである。

その瞬間、彼らの信奉する正義は公正・公平を失い、ただの我儘な主義・主張を「絶対の正義」という名の下に短兵急に普遍化する手段に化してしまったというべきであろう。

絶対の真理とか、絶対の正義という、この絶対という唯一無二の考え方は、それがたとえ百歩譲って本当に絶対唯一のものであったとしても、そのときそれを信じない他者を「愚民」として排斥する絶対であるならば、狭量、独善的な “痩せた真理”、“痩せた正義” でしかないといわざるを得ない。

もし、それが「真の真理」、「真の正義」であるならば、それを未だ信じない他者をも優しく包含し、公正・公平の理念を堅持することなど容易(たやす)いことなのだ・・・と、いう前提に立ち、我々は用心深く世間で声高に叫ばれるこの絶対といわれる正義を、公正・公平の正義で弛(たゆ)まず検証し続けなければならないのである。

世界中の一人々々が己(おの)が教養の中心に「公正・公平」の理念を高らかに謳(うた)い上げ、そしてそれを普遍性を持った価値観として大切に育み、それぞれが唱えるところの主義・主張を公正・公平の理念の中で吸収する・・・。

すなわち個々人がこだわり続ける多様な正義を、それぞれが “自分だけが「絶対の正義」” として他者を排斥、断罪するのではなく、これを一歩進めて互いの正義をお互いが「共有」して担保することこそが民主主義の精神と合致するものであると、切に思うのです。

2009/09/23
2011/10/20 最終加筆

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 33 それでも「政権交替」は必要

2009年の総選挙で常勝自民党が大敗して政権の座から滑り落ち、やっとの思いで政権交代を果たした民主党に大いに期待を寄せて見守ってきたのだが・・・しかし、その後の政権運営におけるこの体たらく振りは実に以って遺憾としか云いようがない・・・。

ボク自身かねてより長期政権の弊害を憂いていた者の一人として自分のホームページ上において「(24)育てよう民主々義と交替政権」と銘うって政権が交替することの必要性を本エッセー集の中で掲載したのは2007年の夏であったと記憶している。

それから数えて二年後、さらに関連エッセーを追加稿として「(30)政権交替は民主国家たる証明」と題して重ねて発表したのが2009年の夏に行なわれた総選挙中の只中であった。

この総選挙で大勝した民主党は念願の政権の座に着き、当時代表であった鳩山内閣が誕生したのであるが・・・その後の顛末は皆もよくご承知の通り「鳩山」~「菅」~「野田」内閣と漂流し、その実力の無さは期待を裏切るものであった・・・いやいや現在も進行形の問題であるが・・・。

これら一連の経過を我々国民はどう評価すればよいのであろうか・・・?。

今回、小生も政権交替を望む立場から前段にて申し述べる如く、この問題に対して二度にわたってその必要性を問うてきた経緯もあり、その結果を目の当たりにした今、ボクなりの考え方をまとめておくことが一つのケジメと考え、改めてここに一編を追加するに至ったものであります。

思うに民主党にとっても、さらには国民にとっても一番の不幸は民主党内において最大派閥を率いる一番の実力者、小沢一郎元代表が自身の政治資金規正問題で自らの足許を揺さ振られ続けていると言う事ではなかろうか・・・?。

本来ならば先ず第一に小沢政権としてスタートすべきが一番自然な権力委譲でなくてはならなかったものが、小沢氏自身の政治資金規正問題から検察特捜部の捜査を受け、これが因で代表辞任の已む無きに至ったことで、結果、一番の実力者が政権トップになれなかったことである。

そしてさらに言うならば、自分の足許を脅かされながらも依然として最大実力者としてその影響力を維持し、かつ行使できる力を保ち続けているという厳然たる事実を民主党内で払拭し切れていないにもかかわらず、この手負いの「虎」を越える「実力者」も、あるいはこれを上手に味方に引き入れる「調教師」も居ないという不幸も重なった・・・。

どのような組織においても共通する概念であるが、一番の実力者がその組織のトップに立ってこそより強力に指導力が発揮されるのであり、これが逆に二番手、三番手の者がトップに立って一番手が野に下るとなれば、そのトップは常に一番手の動向を気にしながら自らの立場の保全を図る必要が喫緊のテーマとなってしまい、なかなか強力な指導力を発揮するという訳にはいかないのである。

そもそも権力構造というものは、それが政治であれ、会社であれ、すべからくピラミッド型を構成するものであり、それは王政国家でも、民主主義国家でも、共産主義国家であっても、体制こそ異なるとはいうものの人間関係における権力構造はピラミッド型に上に行けば行くほど人は少なくなるのであって、フラットな権力構造などというものは現代に至るも確立していないというべきであろう。

近年、政治、及び政治家に「清潔?」を求め過ぎるがあまり、マスコミも含めて国民の多くが見栄えだけの人気投票に偏りすぎてはいないだろうか?・・・“清潔な実力者”、“正直な権力者” という概念だけではたして強力な実行力も備わった指導者に成り得るのだろうか?・・・という疑問を払拭することが出来ない。

ピラミッド社会のなかで繰り広げられるあらゆる権力闘争を「悪」として断罪してしまうことがはたして人間社会の現事実に沿った判断といえるだろうか?・・・人間が身奇麗なまま競争社会を勝ち抜いて権力の座に着くことが本当に可能なのか?・・・またそうしたシステムを仮に人為的に作り出したとしてそれが実行力のある強力な指導者を輩出する後押しになるのだろうか・・・??。

大阪市長であり、弁護士でもある橋下 徹氏が言うところの “総理公選制” こそが多分彼が目指す人為的なシステムに担保された強力な指導力の源泉となり得る論拠であって・・・すなわち国民から直接選ばれている “総理” という立場こそが、同じように選ばれたとは言え多数存在する代議員より、況(いわん)やその道のエキスパートたる官僚集団をも凌駕することができる力の源泉となるであろうことはよく理解できる。

しかし、こうしたシステムがすこぶる有効とするならば会社の社長を選出する場合も全社員の投票によってトップを選ぶことがより強力で清潔な社長を皆で決められる・・・すなわちこれこそが結果的に実行力のある指導体制を構築できる方法である筈である・・・だが、にもかかわらず会社の権力構造は実質的にはそのように機能していないのも現実である。

ただ、一応形ばかりではあるが株主の総意ということで役員の選任が後追い的に信任されてはいる・・・しかし実際には限られた少人数の間での熾烈な闘争や力関係の中での根回し、談合で議決されたものを総会で追認しているのが権力の実体でもある・・・。

そしてさらに言えばこのシステムは “声だけ?でかい?” アジテーター、いわゆる「扇動家」を、あるいは見栄えだけで結果的に口ほどでもない「未熟者」を・・・ラジカルで口当たりの良いフレーズに気をとられて人気投票してしまう危うさが常にあり、この者が幸いトップの任期中に勝手に法律を自分の都合で変えなかったとしても、皆が次の選挙までは最低でも付き合わせられる覚悟が併(あわ)せて “いる” という事態に陥ってしまう・・・。

故にこの単なる人気投票に容易にスリ変わってしまう弊害を、何らかの方法で以って最小限に担保する “間違いのない?” 候補者選びの・・・さらに言えば候補者そのものに網をかけた “立候補できる条件” 造りも必要といえる。

話が少し脇道にそれてしまったが・・・ここで本題である民主党の「政権交替」に話を戻そう・・・。

皆が承知しているように戦後の大半が自民党による長期政権が続き、故に内閣は自民党の中での頻繁なたらい回しで目先を誤魔化し、結果的に国民の選択の範囲を狭めてきたと言える。

この間、野党は “万年野党” と揶揄(やゆ)されながら国家の基本路線で不毛の論議を繰り返し、与党にいくばくかの譲歩を常に迫り続ける条件闘争をすることでその存在意義を国民との接点とし、国民もまた理想平和の下にこれら野党の主張を与党が再び戦争への道にシフトしない砦としてきたのであり、この時点では長期与党と万年野党の長期化は国民の選択でもあった。

しかし、とりもなおさずこの国民の選択が長期政権の腐敗を生んだことも事実であり、例えて言えば国民は国会議員に等しく “運転免許証” を与えこそしたが自動車は自民党にしか与えず、社会党を含めた野党には自動車の運転をずっと拒み続けてきたのである。

その長い長い長期政権と国民との癒着の末が今回の政権交代に繋がったのであって、いわば民主党員の大半は自動車のハンドルを握ったこともない「ペーパードライバー」であり、もちろん不甲斐無いその運転振りには憤慨ひとしおとは言え、運転の機会を長きに亘って拒んで来たことを考慮すれば国民にも相応の責任があるのである。

たまたま「ペーパードライバー」に “運転” を任した時に次から次へと難問、アクシデントが我々の眼前で国難として襲いかかったことは国民皆の大いなる不幸となってしまったが、しかし何時かは政権交代は必要だったのであり、これを機に政権の「交替」が常に可能な政治、すなわち「チョイス」出来る政治の実現こそが最も民主主義にとって有効な選択手段の獲得であった筈(はず)であって、それは同時に日本にとって新しい時代の幕開けが進行していることでもある!・・・と、信じたい。

我々は今、「政権交替」を長きに亘って “サボタージュ” してきた「ツケ」を、ここに至って払わされているのやもしれない・・・。

関連するテーマとして「24 育てよう!民主主義と交替政権」ならびに「30 政権交替は民主国家たる証明」が併せて掲載中となっております。
上記表題となる文字列をクリックすれば移動しますので是非ご一読下さい。

2012/03/30

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 34 先祖供養とお墓の話

先祖供養の形として建立されるお墓は一つの供養のあり方としての結果であるが同時にそれは死者を葬
(ほうむ)る場合の最終の地でもあり、現世に残された家族の追悼の場でもある。

(いにしえ)の昔よりこの葬るという行為はある種人類共通の死生観に根ざしたものでもあり、自然界の時に無慈悲なる災いは「神」への救いに取って代わり、ここに救いを求める信仰が生まれ、宗教が組織されていくプロセスがあるのやも知れません。

宗教のその縁
(よ)って成す根っこのところは世界共通なのかもしれませんが、これを日本に限ってみても「神道」があり、「仏教」があり、「キリスト教」もある等々、そもそもの根本から違う宗教が国内で混在・共存しており、また、一つ仏教だけをとっても宗派は多岐にわたり、その教え、宗教行事も一様ではないのです。

当然のことながら先祖供養の在り様
(ありよう)も宗派によって異なるものがあり、巷間謂(い)われるところの「墓相」なるものもまた然(しか)りで、お墓を新たに建立しようと思っている者、あるいは旧墓を改めて建て直したいと願っている者がその「墓相」なるものを目安とした場合、信仰の形と吉凶との折り合いに大いに迷うところでもあります。

数ある運命学の中でも特に「墓相」は他の占術とは少し趣きが異なっており、それは生物としての人間が太古の昔から受け継いできている “祈り” としての行為から出発しているということである。

人が人を葬
(ほうむ)ることは現在に至っても宗教行為の一大イベントとして厳(おごそ)かに執り行われていることであり、これは前途の如く国を越え、民族を超えた世界共通の宗教行事であって、そのなかにおける「地獄思想」、「天国思想」等も期せずして共通概念として共有しているケースが多いのである。

それがこの世を去った者を偲
(しの)ぶ追悼であれ、またいったん苦界に堕ちた者を救うための追善の供養であっても死者を祀(まつ)るという意味では共通の思いがあるのであろう。

仏教で云うところの「天国・地獄」の発想は「六道」思想からくるもので、すなわち「地獄界」~「餓鬼」~「畜生」~「修羅」~「人間」~「天上界」の六つの道があるとし、その思想はおおよそ以下の如くのストーリーに添ったものと思われる。

・・・・・・・・・・

それは生前、顕界(現世)において悟りを得られなかった祖霊は、死後の霊界にあってその生前に犯した罪障のために必ず一度は苦界に沈むとされ、ために直ぐには永遠の仏の世界に移ることも、遺族や、子孫を守護し、導くことも叶わないとするのです。

この苦界に堕ちて迷っている祖霊を浮かび上がらせ、成仏道に導かれる手助けをすることが遺族や子孫の勤めであり、その追善供養の功徳により悪い因縁を消滅させ、善い因縁を強くすることが出来ると説くのである。

すなわち追善供養の及ばない霊は苦界に沈んで十王の呵責を受け続けているとし、故に遺族や子孫の修する誠真の供養を望み、欲しているのであって、その追善の供養が十王に行き届き、生前の罪障・罪業が消滅して取り除かれたと判断されたときに祖霊は成仏・解脱が許されて顕界の子孫達に良化・引導の福をもたらす力を得ることが出来るとするのであります。

いったん苦界に沈んだ祖霊は生前に犯した罪障を顕(あきら)かとするために七日ごとに冥官の前に引き出されて呵責(かしゃく)されるのですが、その呵責の様子が「地蔵十王経」に次のように説かれて居ります。

初七日 (七日目)  秦広王 (不動明王)
罪人の生前の悪事について呵責され、この王の審判で行き先の定まらない者は三途の川を渡ってニ七日の王のもとに送られる。

秦広王(しんこうおう)は不動明王が化身したお姿で現れたもので、不動とは悟りの心が堅固でいかなることがあっても動じないのであり、衆生が貪欲、瞋恚(しんに)すなわち怒り怨(うら)むこと、さらには愚痴の三毒の煩悩を断ち切り、成仏・解脱に導くとされるのである。

二七日 (十四日目) 初江王 (釈迦如来)
  この王は奪衣婆と懸衣翁のニ鬼を従えて亡者が川を渡るのを監視します。
亡者はここでニ鬼によって衣服を脱がされ、盗業を戒めて両の手の指を折られ、生前の罪の高低と遺族の追善が査定され、追善が及ばぬときは直ぐに地獄に落とされ、そうでない者は次の王のもとに送られるのです。

初江王は釈迦如来が忿怒(ふんぬ)の形相をもって化身した王で、仏教の開祖であって衆生を教化され仁慈の徳をもって済度されたのであり、未来永劫にわたって一切の人々の迷いに真理の法を説いて解脱に導くとされる。

三七日 (二十一日目) 宋帝王 (文殊菩薩)
  ここでは亡者の邪淫の罪が検責され、悪猫と大蛇によって責められますがここでも遺族の追善が問われ、及ばないときは地獄に落ち、追善によって救われると次の王のもとに送られます。

宋帝王は同じく文殊菩薩が忿怒(ふんぬ)の形相をもって変身した王であり、過去・現在・未来の三世にわたってこの智慧の光を普く照らして一切の衆生の心の闇を浄し、三悪道に堕ちることが無いように導いて下さるものとします。

四七日 (二十八日目) 五官王 (普賢菩薩)
  ここには秤(はかり)があって身口七罪の軽重が審判され、亡者は秤の前に立たされると錘(おもり)が自然に動いて罪の深浅が示されます。
ここでも同じように追善が及ばぬときは地獄に落とされますがいささかの仏法の結縁があるときは許されて次の王に送られる。

五官王は普賢菩薩が忿怒の形相に化身したもので、この菩薩は過去においてその智慧が暗いために無間地獄という最も極悪の底知れない地獄へ落とされるようなことがあっても速やかに救い上げて引導を授かるとします。

五七日 (三十五日目) 閻魔王 (地蔵菩薩)
  この王のもとでは亡者の生前の善業と悪業を映すことの出来る浄玻璃の鏡があってその善悪を細かく記録した倶生神の鉄札が備えられており、遺族が修する追善も細大漏らさず報告され、亡者の成仏や、天上界への道とかも定められて次の王に送られるのである。

閻魔王は地蔵菩薩が化身して亡者を呵責する王であるが、この菩薩は釈尊の没後から弥勒菩薩が成道するまでの無仏時代の衆生済度を付嘱されたもので、六道それぞれに修行者のお姿で現れて亡者の苦しみをご自分の苦しみとして教化・引導を施し救ってくださるものとするのである。

六七日 (四十二日目) 変成王 (弥勒菩薩)
  ここでは前の二王で用いられた秤と鏡によって再び審判され、罪があれば悪を責められ、福があれば善をすすめられます。
呵責を受けて身を縮めている亡者に遺族の努める追善があれば大王は獄卒達に命じて救いの手を伸ばし、その生処を善処に定めてくれますが定まらぬ者はまた次の王に送られるのです。

変成王は弥勒菩薩が忿怒の形相で化身した王で、この菩薩は釈尊の滅後にその代わりとして生まれ変わる最高の菩薩とされ、三世にわたる供養をつとめるにあたっては現在仏の阿弥陀如来と共に未来の教主としてその功徳は絶大といわれております。

七七日 (四十九日目) 泰山王 (薬師如来)
  ここで一切の罪人の生処が定められるとし、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)それぞれの門に送られることになるのです。
また七七日(四十九日目)の満中陰の追善によっては一切の罪人が浮かぶことが出来る境とされ、悪処の因果が転じられて善処の生を受けることになります。

泰山王は薬師如来の化身として東方浄瑠璃世界の教主とされ、菩薩時代に十二の大願を発して衆生の病気を除き、諸根を具足させて解脱へ導くことを誓われたと云われ、すべてのものに地獄などの悪道に陥らないように西方極楽世界の無量寿仏の許に導くとされる。


百ヶ日 (百日目)   平等王 (観世音菩薩)
  満中陰にあっても未だ生処の定まらない亡者は平等王のもとに送られて更なる審判を受けることになります。
ここでは鞭などで呵責され、努力をして功徳を積むことを求められますがここでも頼みは子孫達の追善だけと説かれるのです。

平等王は観世音菩薩の化身とされ、観世音とは世間の衆生が救いを求める声を聞くと直ちに現れて救済してくださる菩薩の意であり、また一切の事柄を自由自在に観察して救いを求める者に応じてお姿を変え大慈悲をもって清浄界への悟りに導くとされます。

一周忌 (一年目)    都市王 (勢至菩薩)
  前の王のもとでも生処が定まらなかった亡者はここで都市王の審判を受けることになり、王は亡者に法華経と阿弥陀仏造立の功徳を説き、そして本来なら地獄に落ちる亡者がここまで進め得たのはひとえに遺族の追善によるものであるとし、その孝養の厚き遺族の一周忌の追善によって三年忌の王のもとに送られます。

都市王は勢至菩薩が化身したもので、この菩薩は観世音菩薩の大悲の勢力を得て衆生に菩提心の種子を与える働きがあり、臨終のときに現れて西方極楽浄土への道を示す八菩薩の一つとされている。

三周忌 (三年目) 五道転輪王 (阿弥陀如来)
  この王はニ官衆獄司を従えて亡者の煩悩を懲治し、ここでも遺族の追善が評価され、よくよく菩薩を祈るときは成仏・解脱を得させて人天等につかわせるのである。

五道転輪王は阿弥陀如来の化身で、阿弥陀如来は西方極楽世界の教主であり、十万億土を去る西方に極楽国を建立し今も説法をしていると説かれます。
この如来は浄土門の教主であって全宇宙にあまねく平等に衆生の迷暗を照らして悟りに導くとされ、その人が命の終わるときにあたって西方の極楽浄土から枕辺にまで迎えに来てくださるとされるのです。


このように十王は亡霊が生前に犯した罪障・罪業が消滅するまでは忿怒(ふんぬ)の形相をもって審判にあたるのですが、遺族や子孫の修する罪障消滅の追善供養等によりこれらの罪が消滅すれば直ちに本来の仏のお姿を現して教化引導を施してくれるものとするのです。

七周忌 (七年目)        (阿閦如来)
  阿閦(あしゅく)如来は東方の阿比羅提世界に住するとされ、すべての衆生に慈愛の心で接し導いて邪気を祓い、この御仏(みほとけ)を信じることでよく成仏・解脱を得ることができるとします。

十三周忌 (十三年目)      (大日如来)
  この如来は大宇宙の実相を仏格化した根本仏とされ、一切の諸仏、諸菩薩はこの大日如来より派生されたものとし、智徳の面より開示した金剛界と、理徳の面より開示した胎蔵界とに分けられ、ここで説かれるのは金剛界大日如来で、胎蔵界大日如来は十七周忌を司るものとされます。
この如来の功徳は太陽にたとえて説かれ、光明赫々(かくかく)として全世界を遍(あまね)く照らして闇を除くが故に遍照金剛とも称せられ、衆生の悟りの理性に智徳を注ぎ、不滅の光明で無明の闇を除いて引導をもたらすとされます。

三十三周忌 (三十三年目)   (虚空蔵菩薩)
  この菩薩の功徳はあらゆる福徳と智慧とを無尽に包蔵し、まるで計り知れない虚空のように大きな大慈、大悲のお力によって悩み苦しんでいる衆生を救い上げるとし、虚空蔵菩薩を信仰することで過去世より今日まで積み重ねられてきた極悪の罪障も消滅するとされるのです。


以上、苦界に堕ちたとされる祖霊の供養と仏教で云うところの六道思想は十三仏の審判と引導によりそれぞれの道に送られるとする様を説いたものであり、これらはいずれも矢島俯仰著「墓相大鑑」より引用させていただきましたことを、ここに謹んで謝意を表します。

このように十三仏は過去における罪障を消滅し、地獄などの悪道に堕ちている衆生を救い上げて下さると共に、現在においても福徳を授けて所願を成就に導き、未来への智慧と安楽を約束するもので、これが仏教で云うところの六道思想と仏の道を実践することの功徳をストーリー性をもって説いたものと思われる。

仏教における追善供養の在り様(ありよう)は上記の如くでありますが、同じ仏教でも「親鸞」を開祖とする浄土真宗では解釈が異なるのであり、真宗大谷派である本願寺では “南無阿弥陀仏” と名号すれば誰もが即・成仏できるとする教えから “亡者になって苦界に沈む” などという考え方そのものが理に適わないとし、追善という行為ではなくて死者を偲(しの)んで皆が追悼する機縁としてこれを捉えているようである。

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人間は過去と未来の間にあってこの現世といわれる現実世界に住し、それぞれがそれぞれの過去を背負いながら未来に向かって生きている。

しかし誰もが永遠では無い “限りある寿命” を抱え、何時(いつ)しか・・・それも確実に訪れる・・・この厳然たる死なるものを向かえ・・・あるいは身近で死なるものを見届けながら長い人としての歴史を積み重ねて来たのである・・・。

この短い灯明を継(つ)なぎながらつむいで来た思いが死者を弔(とむら)うという文化を育んだのであって、それは同時に過去世と現世を繋(つな)ぐものでもあり、さらに云えばその間に立つ自分自身の依って成す存在の在り処、すなわちアイデンティティーでもあるはずであります。

だからこそ親族はねんごろに死者を弔い、その証として墓標を建ててきたのであって、それは一つのメモリアルではあるが単なる記念碑とは異なる厳然とした、かつ愛(いとお)しいほどの固有の血脈がそこにはあり、故に弔いの結果として墓碑が存在し続けているのである。

そしてその思いがお墓という「形」になって公となった瞬間、その「形」が逆に “その「形」を護ろうとする者達” を束縛するのであって、このような “形” で主客が転倒する事例は、たとえば創業者社長が社訓を公の「形」で掲げればその社員はこの社訓に束縛されるし、それが二代目、三代目の社長であったとしても創業者社長が偉大であればあるほどやはり束縛を受ける確率は高くなると云わざるを得ません。

これが法律でも然(しか)りであり、法が万人の規範となって公に発布された瞬間から、逆に形となった法律がその形を護ろうとする総ての者達を逆に束縛するのである。

このような考え方に立てば、お墓も家もそれが目に見える「形」で建った瞬間からそこに住む者、あるいは係わりのある者を束縛するという論理に辿り着くのであって、その束縛は当然これに縛られる側の者達にも結果としての吉と凶がともなって来るとする考え方はすこぶる自然と言うべきで、ここに運命学としての家相や墓相、さらには名相としての姓名判断が成立し、かつ必要とされる根拠があるのです。


この「墓の吉凶」、すなわち「墓相」をメインテーマとして詳しく説明するには本「エッセー集」欄では少々場違いの感があり、改めて別の場で龍得水の考え方を申し述べることとし、ここでは以上、先祖供養とお墓の話として概論を述べるに止めます。

2013/04/20

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龍得水の「人生をエッセー」は、これからも折に触れて随時追加していきます。
このエッセー集が少しでも参考になれば望外の喜びです。
龍得水


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