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見出しトップタイトル ≪龍得水の人生をエッセー≫

人生をエッセイ  その 3



龍得水の「人生をエッセイ」ページ “その ” には「(21) 家庭の中での序列の是非を問う」から「(30) 政権交替は民主主義国家たる証明」までの以下 ≪目次≫ 欄の通り(10)編を掲載しております。

現況、龍得水「人生をエッセイ」集では “そのその ” まで全部で(33)編が掲載中です。

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龍得水の 人生をエッセー
ページ  その 3
≪ 目 次 ≫
       
21 家庭の中での序列の是非を問う     26 占い師の分限・・・?
22 衣食足って礼節を知る?・・・忘れる?     27 自由故の拘束感?・・・豊穣故の飢餓感?
23 いじめ・・・差別・・・優越感     28 自我と帰依・・・そして信仰心
24 育てよう! 民主主義と交替政権     29 運命と個人の分限・・成功の黄金比率とは?
25 「運命」とは?・・・その定義     30 政権交替は民主国家たる証明
       
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 21 家庭の中での序列の是非を問う

戦後、自由・平等の観点からか「上下の序列イコール不平等・差別」と捉える傾向を強め、序列は封建的な懐古主義の考え方であって、それは悪しき不平等や差別の温床になるということで遠ざけられてきた。

言うまでもなく序列は上下、すなわちタテの関係である。
サルやオオカミはもとより動物社会での序列は「群れ」を生きるうえで大変重要であり、むしろ序列が決まることで無用の争いを回避する安全弁となっている。

それは腕力・知恵・生命力をも含めた「総合力」で決まるものであり、さらにはある種「運」の力さえもプラスアルファーされた「個体」としての「分限」、すなわち自身の立場、身分、力の限界を一匹一匹に冷厳に迫るものでもある。

ここに序列が決まり、その分限に従って差別が生じることになるが、しかし反面その分限を知ることで一つの「群れ」のなかで自分自身が逆に護られ、かえって生き延びるための安寧と保障が得られているのも一方の事実として見落としてはならない。

個体としての動物にとって自身の「分限」を知るということが、どれ程に重要かつ必要にして欠くことの出来ないことかは、この一事をもってしても明らかであります。

もし、自分の「分限」を確認する事無く、総てが「平等」であるという錯覚のもとで「群れ」を生き延びなくてはならないと仮定した場合、はたして本当に自由と平等の平安な生活は安定的に維持され、かつ保障されるのであろうか?

分限を知らなければ自身の立場、身分、力量をも省みずに思うことを押し通そうとし、周りとの無用の軋轢(あつれき)を生じることとなり、そのとき自分に力量が無ければ腕力のある同じ仲間から完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされ、プライドは立ち直れないほど傷つくであろう。

「分限」を知るということは「群れ」の中での自分のとるべきマナーを会得することでもあり、それは同時に自身の「分限」に応じた「相互の我慢」を「生活の知恵」として受け容れる必要性を学ぶことにも通じ、その学習が自己抑制を育み、相手との距離感を認識し、お互いが序列に従うことで無用の争いを最小限に収める事へとつながって自他共に傷付く事を回避しているのです。

前置きが長くなりましたが、これを今回のテーマである「家庭の中での序列」に当てはめて考えてみた場合、改めて申すまでもないことだが家庭といえども一つの「家族」という「群れ」であることに変わりはない。

もし家族から序列を取り除いて考えたらどうなるであろうか?
夫婦にも、子供にも、子供同士の兄弟姉妹にも、祖父・祖母にもこれといった明確な序列はなく、皆がそれぞれの人権を重んじてなるべく「フレンドリーでフラット」な人間関係を維持することを想定した場合である。

これは戦後の家庭のあり方として結構支持され、自由で平等な人間関係を家族の中で体現するとした理想家族の典型的な姿だったのやも知れないが・・・。

いわば友達のような親子、男女差別のない同権の夫婦、あるいは祖父母の関係であろうか?

しかし、この関係を良好に維持するには家族の一人一人が相当熟練された理性と自己抑制のもとで、常に対等に相手を思いやる「深い愛」が何よりも優先して必要であり、子供も含めて皆が良識ある「大人(おとな)」の振る舞いが出来るという前提をクリアして始めて存立する、極めて難度の高い人間関係の構築を要求され続けているということでもある。

何故ならば、たとえ大人でさえ常に良識ある振る舞いを維持することは困難であり、いわんや成長過程の精神的にも未熟な子供にあっては反抗期等を含めてなおさらであります。

それでは人間が自ら構築する「群れ」の中で体得しなければならない「序列」の効用とは何であろうか?

たとえば分かり易い例で反抗期の子供で考えてみよう。

子供は自らの自立を促(うなが)すために反抗期を経験し、親と子の保護者と被保護者の関係からお互い対等な大人への「助走」を始めるのだが、それは同時に “ぬくぬく” とした被保護者の立場からの「お別れ」をも意味し、そのジレンマの中で精神は不安定となり、親との距離感を反抗という「苛立ち」のかたちで羽ばたいているともいえる。

昨今問題になっている「閉じこもり」、「家庭内暴力」等々は、そうした自立への助走がうまくはかどらない「苛立ち」の典型的なケースではないかとも思われるのだが・・・。

これが「序列」のない理想的?な「群れ」のなかでの出来事としたら・・・すなわち老若・男女・長幼の別さえも理性で平等性を求めんと欲しながらも、しかし動物としての人間の本性に抗し難い現実の未熟な人間関係では、いったん起こってしまった暴力に歯止めが利かないのであり、そのとき理性は本性の前で無力とならざるを得ないのです。

今一度「家族」に話を戻して「序列」を考えた場合、親子は保護者と被保護者で明確な序列があり、男と女は腕力で男が女に勝ることでやはり明確な序列が形成される・・・ただし女が腕力においても男を凌駕(りょうが)するようになれば序列は逆転するであろうが・・・。

これを子供の側から見れば動物学的に非力な母親をやはり動物学的に成長して身体が大きくなった子供が自分の「苛立ち」のはけぐちとしてある種の暴力の(言葉の暴力を含めて)対象としてしまうことは容易に理解できる。

そのとき父親の序列が日常生活の中で母親とあまり変わらなければ、「苛立ち」の攻撃は時をあまり経ずして父親にも向けられ、家族の秩序は崩壊の危機に瀕(ひん)するであろう。

この時間差こそ重要であって、父親の家庭内での序列が高ければその高い分だけ父親への攻撃にためらいが生じ、苛立ちの反乱は父親が壁となって子供が序列の一位になってしまうような逆転現象を見なくてもすむ確率が高くなるのである。

すなわち「ためらい」が長ければ長いほどその時間のおかげで子供も成長し、「苛立ち」の反抗も自分が未熟さを卒業することで自然に収まり、新しい大人の関係へと移行することが出来るのです。

子供にとっては父親が腕力において序列一位の存在であって、家庭の中で反乱を起こし、その秩序を乱すことは自分がその父親と直接対峙することになることを百も承知なのである。

だからこそ子は子の立場でビビッテもいるのであり、恐れ、ためらい、逡巡するのであって、ここまではむしろ正常な巣立ちを前にした親子の綱引きとも言える。

問題は父親の序列が不明確で、母親との序列とあまり区別がつかないと子供が意識・無意識にかかわらず感じながら成長して反抗期に突入してしまったときである。

このとき男の子などは身体的には既に父親を追い越しているものであり、頼みの「父親の壁」をあまり意識しない子供と対峙したとき、さすがにたとえ父親といえどもビビルのであり、瞬間目を落としたり、勢いで取っ組み合いとなって叩きのめされでもしたら、表面的にはともかくとして意識の上で序列は逆転して立ち直れないのである。

ひるがえって世の中で序列のない関係などあまり無いのであり、むしろ逆に社会は序列で満ち溢れているといったほうが正解かもしれない。

序列をことさら否定したがるのは理想家庭と学校生活の場だけかも・・・。

もしそうだとしたら、ことさらに序列に適応しない人間を「平等」という美名のもとにわれわれは日々作り出し、そして序列の蔓延した現実社会に無防備で送り出しているのかも知れないのである。

いわゆる「引きこもり」、「閉じこもり」、「ニート」、「家庭内暴力」、「フリーター」なども無防備で社会に送り出された若者の「適応障害」的な挫折感の「悲痛な叫び」ともいえるのではなかろうか。

家庭の中での序列は動物としての人間が成長し、巣立つために必要であり、いわば社会に出るためのシュミレーション機能を家族内で体得せしめ、やがて本物の社会人として大人の仲間入りをしたとき、我が身をより安全に護るマナーの体現としての効用を果たすものでもあるのです。

どうか世のお母さん方、我が子の順調な巣立ちの一助となり得る家庭内での「序列」の在り様を今一度考え直し、貴女にとってたとえ “どうでもいい夫?” であっても??・・・せめて子供の前では父親の序列を高く見せ、ちょっとした弾みで易々と子供が父親の壁を乗り越えてしまうことのないような配慮を、可愛い我が子の健全な巣立ちのために戦略的に実践すべきかと思うのです・・・。

序列の「逆転」などということは本来子供自身も期待していないのであって、たまたま勢いでそうなってしまうことは双方にとっても取り返しがつかないほど不幸であり、このようなことの無いような配慮こそが誰もが望まない家庭の崩壊を防ぐ最も有効な安全弁と思うのです。

こうした配慮が結果として必ず全体としての家族の安定に寄与し、父親の壁の高さを利用することで子供は子供の分限に収まり、母親の立場もまた護られるものと信じます。

2006/09/11
2006/10/03 最終加筆

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 22 衣食足って礼節を知る?・・・忘る?!

管子の中に「倉りん実ちて則ち礼節を知り、衣食足って則ち栄辱を知る」とあり、すなわち “倉の中が豊富となれば人は礼節を知ることが出来、生活に必要な衣食が十分足りてくるとはじめて真の名誉や恥辱が如何にあるべきかを知る” といった意味であろうか・・・。

これが今日、冒頭に掲げた表題のように「衣食足って礼節を知る」となったものだが、平たく言えば “着る物、食う物に困るような貧乏から解放されて豊かになれば、人は自然と礼儀正しく、節度をわきまえた人生を送れるようになる” ということである。

この論をもってすれば豊かな暮らしを謳歌する日本を含めた世界の先進諸国は、すべからく「礼節」をわきまえた国民で溢れていなくてはならない。

振り返って戦後著しく豊かになった日本はどうであろうか?
表題にも掲げたとおり「衣食足って礼節を知る」どころか、むしろ「衣食足って礼節を忘れる」が如きの世情を見聞きするに及び、人間はただ豊かになっただけでは「礼節をわきまえた徳行の篤い人間」にはなれないということである。

いや、むしろ衣食が豊かに成れば成るほどに心に飢餓感が生じ、駆り立てられるようにより豊かさを希求し続けるその果てに、計らずも浅ましい自分自身に再会してしまう・・・この救いようの無い心が貧しくなっていくようなドミノ現象はいったいなんだろうか?・・・と、思ってしまうのである。

豊かになることで「礼節」が備わらないならば我々はどうすればよいのか?
そもそもが礼儀正しく、節度ある人間という概念は、人間が本然的に備えるいわば「本性」とはかけ離れた概念なのかもしれないということである。

本然的にあるいは潜在的にでもその本性の中にインプットされていないものが、時間の経過とともに自然に成育されて来るはずも無いと言うべきなのかもしれない。

ひるがえって考えるに「礼節」は人間関係の中でのマナーのようなものであり、これは言い換えれば習熟した文化でもある。

すなわち文化は教養であり、教養は繰り返し教育してこそ始めて身につく知性であり、さらにこれを逆説的に言えば教育し、学習しなければ身に備わらない知性でもあるといえる。

文化は意識的、かつ少しく強制的に継承していかなければどんどんやせ細り、やがて継承していたはずの文化そのものを忘れてしまうほど社会的人間にとって高等な習熟を要する教養、すなわち知性、すなわち文化なのである。

冒頭に掲げた「衣食足って礼節を知る」のではなく、「礼節」は絶えず教育し、躾をし、さらにこれを習熟し、美化し、共通の価値観にまで高めることで始めて身につき、継承され得る高等な文化であるということを先ず知らなければならない。

昨今この「礼節」を忘れるが如きの事件、事故多きは、ひとえに高等文化を支える教育が痩せ衰えているからに他ならないのであり、人間はたとえ衣食足るとも本然的に我が身の自由を欲して生きることに我がままであって、自己抑制を伴うような高等な概念は少しぐらい豊かになったぐらいでは自然に身につかないと思うべきなのである。

動物的人間が教養ある文化的人間に生まれ変わっていくには教育という学習のプロセスを経る事が不可欠であり、そしてだからこそ「学習を繰り返し繰り返しするのだ」という基本的な考えに今こそ一度立ち戻る必要があるのかもしれない・・・。

元来学習とはそういうものであり、またそのために確立した途絶えてはならない難度の高い高尚な文化というべきなのだ。

2006/12/10
2006/12/13 最終加筆

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 23 いじめ・・・差別・・・優越感

近年「いじめ」による問題・・・というよりは事件、犯罪と定義したほうが適切かもしれないような出来事が頻繁に起こっている。

そもそも「いじめ」は昔から存在したし、今から考えてもかなり悪質で、とてもただの「からかい」とは言えないほど被害者の人間性を踏みにじるような悪意に満ちた行為が無かったわけではない。

しかし昨今の「いじめ」のような、皆がよってたかって「いじめる」というようなことはなかったと理解している。

いじめる側の悪がきは必ずクラスに5、6人はいたが、しかしそれを諌(いさ)める者もいたし、被害者に寄り添う者もいたと記憶するのである。

ただ、たとえ諌める者がいようとも、あるいは寄り添う者がいたとしても、被害者が受ける心の傷がそれで癒されるものでは決して無いことは今も昔も変わりはないのであり、いわんやそれが将来の生きる道さえ閉ざしてしまうとなれば、これはもう基本的な生存権まで脅かされている看過出来ない現象と言わざるを得ない。

ひるがえって動物としての人間という観点からその生存の力学を考えれば、それはただひたすら「自分が一番有利に生き延びられればよい」と言うことに尽きるであろう。

これは究極の「自我」であり、あまねく生き物が自分自身の生存を確保・維持するため、生まれながらにインプットされている本然的な行動原理の最もシンプルな形での行使でもある。

生まれて間がない赤ちゃんは、自分の生命を100%親に依存しながら、その大切な親の都合など微塵も考えることもなく、当然といえば当然だが自分のか弱き「命」を維持するための手段として、ただ泣き、わめき、笑い、怒る。

そしてこのか弱き生き物は、成長して大人になるに従い学習し、訓練され、集団性を身につけることで始めて「社会的なる人間」となるのである。

人間が人間としての文化を受け継ぐということはこのようなプロセスを経ることで始めてかなうことで、学習・訓練の実践力が弱まれば、人間はいつでも先祖帰りしてただの動物となってしまう「性(さが)」を、いつも心の奥深くに抱き続けている生き物であるということを忘れてはならないのである。

今日、あまりに個性を重視することで、「個性」と「我がまま」の線引きが曖昧となり、我がままこそが個性の源泉であるかのごとき錯角に陥ってはいないだろうか?

マナー無き個性は簡単に単なる「我がまま」にすり替わってしまうことを皆が今一度再確認する必要があり、たとえ個性といえども社会的人間としての必要欠くべからざる基本的なマナーの上に乗っかってこそ花開くものであるということを、それぞれが肝に銘ずべきなのである。

しからばマナーとはいかなることであろうか?
それは平たく言えば “他人にされたら嫌だな” と思うことを、自分が他人にしないことである。

この行為を人は昔から情緒ある言葉として「思いやり」と定義し、それは他人を思いやる丁寧な心くばりであり、ひいては自分を護る人間関係の中での潤滑油としても、これをずっと大切に育んで来たつもりであった。

しかしこの学習効果が、近年どこかで途切れてしまったという他はない現象が、まるで堰(せき)を切ったように巷(ちまた)に溢れ出している。

考えるに「マナー」も「思いやり」もこれを実践するには、それなりのより所としての定見と、それを素直に表現することが出来る訓練がいるのであり、これは高度の社会性でもあり、これを会得するには家庭を含めた小学生の低学年までに身体で覚える反復訓練、すなわち「躾(しつけ)」という文化的な行為が必要となるのである。

「躾」は人間が社会という集団生活の場で必要とされる最大公約数的なマナーの体得であり、それには強い自我の抑制をともなうが故に、このマナーや思いやりを発揮するためのバックボーンとして「正義」が必要不可欠となるのです。

正義は欲望をコントロールし、正しい定見を育み、短絡的な損得に拘泥しない自我を確立し、正義を貫くことの不利益や困難さを、同じ正義が勇気を持って克服していく・・・いわば正義が正義を支える相乗作用の原動力でもある。

逆に正義なきマナーは自分勝手なマナーに容易に陥りやすく、また正義なき思いやりはただの馴れ合いに終始する恐れが生じ、結果として定見のない自我の塊(かたまり)の中で普遍性を持たない個性を増幅し、自他共に傷つき、病むのです。

この “思いやりの行為” は一見 “施(ほどこ)しの行為” に似るが、ただ一口に「施し」といっても富を再配分するような単なる「施し」とは少し意味合いが違うと思うのである・・・。

施しには水が高きところより低きに流れて常に平準化を維持しようとする「公平」さもあるが、同時に上から下へ、持てる者から持たざる者へといったある種あわれみを内包した優越感があり、多分に唯物的な行為性として浅いとらえ方に終始する恐れを拭いきれない・・・。
もしそうであれば、これはもう差別の延長線上でとり行われる「施し」という儀式に他ならない。

当然のことながら「施し」も精神的な背景に揺るぎない正義が貫かれてこそ、優越的な施しから真の「施し」たり得るのである。

しかし正義を貫くには強い自己犠牲を伴うことが多く、正義を貫く鍛錬を積み重ねていかないとたやすく目先の損得に押し流されてしまう。

そんなに簡単に押し流されてしまうような正義なら、その正義そのものに価値がないからではないのか?・・・という考え方もあろう・・・。

しかし損得だけでは立派な人格は育たないのであり、マナーも思いやりも損得の合理性の上に立脚するとなれば、うわべだけの優しさ、あるいは格好だけのマナーとなってしまい、口では立派なことを言っても自分が損になることには何時も逃げてしまうような言行不一致な人間が巷に溢れ出てしまうだろう。
もっとも今でもそのきらいがないわけではないが・・・。

動物としての人間にとって、ただただ自分自身が少しでも有利に生き延びることが大前提となるは当たり前であり、むしろこれが自然の姿といえるのかもしれない。

この最も自然な姿で「いじめ」を考えれば、「いじめ」は「いじめる側」の自分の方がこの瞬間「立場は上だよ」という優越感であり、自分の方が有利に生き延びている自己確認でもある。

この自己の有利性の確保は「差別」の温床でもあり、そしてその「差別」はブーメランのように優位性を維持した安心の優越感となって自分の立場を保障する。

何故なら、差別(いじめ)は差別するほどに自分自身がより選良され、安心の立場を確保できる心地よさを内包するからに他ならない。

この損得の自然の流れを悔い止めるのは、動物としての人間の中に「正義感」をインプットするしかないのである。

いみじくも「正義」とは、“人が当然なすべき道、あるいは規範を、正しく護り行動すること” であり、この信条が一人一人に広くいきわたる教育なり、躾なりが絶えず伝承されてこそ、動物的な人間から社会的なる人間へと鍛錬された「思いやり」も育つのである。

ただし、それでも「いじめ」は減少はしても無くなりはしないであろう・・・。

ここに動物としての人間の、逞(たくま)しくも愚かで悲しい性(さが)があるのであり、これをモグラ叩きのように常に正義をもって自問自答し、自らの社会的なる人間の錬度をたかめていく他ないのである。

そして皆がこの正義を価値あるものとした共通の認識を育んでいくためにも、正義を実践する者をおおいに称え、かつ社会全体で大切に遇していくことこそが、正義の伝承をこれからも途絶えさせないための、我々大人に課せられた責務と言えるのではなかろうか。

2007/05/08

2007/05/21 最終加筆

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 24 育てよう! 民主主義と交替政権


平成19年7月の参議院選挙が終わった。
結果は皆も知っての通り民主党の大勝利で、政局は一挙に流動化するのではないかといわれている反面、今回は・・・あるいは今回も?民主党の勝利と言うよりは自民党支持者が “自民党に据えた大きな熱いお灸だ” と言う見方も根強くあるようで、今後この結果がどのように推移していくかはしばらく様子を見守るしかないといえる。

一票を投じる国民の立場としては次の衆議院選挙でその結果を演出することも可能ではあるが、日本ではなかなか政権交替が容易でないことを歴史が指し示していることも一方の事実である。

政権交替を危惧する人たちがよく口にすることに “自民党以外の政党では頼りなくて国を任せられない” と言う方が多い・・・確かにその通りでもある・・・が、しかしそれでは何時まで経っても交替政権が育ってこないし、また育てることも出来ない。

よく「地位が人を育てる」と言うが・・・すなわち野党のままでは何時まで経っても責任が軽く、国の責任を果たすような人材が育たないことになる。

育ってくるのを待つのではなく、我々国民が、我々国民の将来の選択肢を広げるためにも、あるいはより健全な民主主義を構築するという名目のためにも、平生は力なき国民の利益を護る有効な手段として政権交替をとらえるべきであり、そのためには多少の不安には目をつぶってでも次のリリーフエースを育成しなければならないはずなのである。

権力には当然のことながら利害が生じるものであり、利害は立場立場での損得を生み、その損得はより有利な利得の確保をめぐって談合、馴れ合い、恫喝等々、常に腐敗の温床となり得るのであり、これは一つの政権が長ければ長いほど顕著であって、いみじくも長い人間の歴史がそれを如実に証明している。

どんなに有能で高潔な人格をもってしても、それが多選に及べば周りは見えないところから腐敗していくのであり、ボクはたとえ有能で人格者の多選よりは、未熟でも未だ権力的に腐敗していない新人の可能性に常に賭けることが民主主義の健全な育成に貢献するものと信じて疑わないのだが・・・。

話を自民党に戻せば、大臣も人が替わればそれなりに個性が変わって新鮮となるのかもしれないが、しかし同じ政党内、すなわち仲間同士での責任のたらいまわしでは前任者の行った仕事の否定や責任の追及はし辛いものがあり、方針の180度変換とはなかなかならないのである。

ここに官僚同士、官僚と政治家同士、さらには政治家同士の馴れ合いが生じ、それぞれの既得権益拡大のための談合、腐敗の温床となるはいわば当然の帰結でもあり、この貪(むさぼ)りを誰もが簡単に止められない状況となってしまうのである。

民主主義はこの誰もが止められない動物としての人間の性(さが)を、少なからず無力な国民の手でチェック出来る優位性があるからこそ先進諸国の政治制度として積極的に採用されているものと理解している。

本来民主主義というのは民意を反映すると言えどもその運用に当たっては非効率的で面倒くさい制度でもあり、この制度を維持するためには国民一人々々にある程度の教養を要求し、政治が暴走しないように常に政治をメンテナンスする必要がある・・・いや、メンテナンス出来る制度と言うべきかも知れない・・・だからこそ我々はこの面倒くさい制度を一生懸命護らなくてはならない定義づけも理解できるのである。

このメンテナンスの力をどれだけ維持しているかがその国民の教養、すなわち民度の高さと言えるのであり、そのためにこそ選択できる政権を我々は育成すべきであって、そしてこれこそが政権の暴走や腐敗をチェックできる名もなき国民に付与されたメンテナンス制度と言える。

ボクは立場的に言えば無党派層に属する一人であって特別に支持政党を持たないが、しかしなるべくならば少しでも健全な民主主義を希求する一人でもある。

一つの政党を熱烈に支持し、支え、参加するのも民主主義ならば、たとえ日和見と言われようが無党派であるが故にことさら政党に固執しないで下せる一票の判断というものもあり、これこそが密かに自負する無党派層の民主主義的な政治参加としての真骨頂と思うのだが・・・。

だからこそ選挙には参加するし、首長選には多選者よりは新人を支持し、両院選挙では政権交替を願って一票を投じるようにしている。

何よりも選べるということ・・・すなわちチョイス出来るということが暴走や腐敗を少しでも食い止めることが出来る有効な手段と信じるからに他ならない。

それがまだるっこくて面倒くさい民主主義の優れたところと思うからである。

関連エッセーとして「30 政権交替は民主国家たる証明」と「33 それでも「政権交替」は必要」というテーマで追加掲載いたしましたので併せご一読いただければ幸いです。

2007/08/06

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 25 「運命」とは?・・・その定義

「運命」とは何を、如何(どう)定義すればそれが「運命」と言えるのか?
それは多分生きとし生けるもの総ての生き様に関わる問題でもあり、単に一(いち)人間だけに限った問題ではない大きな広がりをもったテーマといえるのかもしれない。

たとえばそれが一本の樹木であってもその一本一本には固有のドラマがあるのであり、その種子が生れ落ちる瞬間から固い岩場であったり、日の当たらない北の斜面であったり、あるいは肥沃な土地であったりで随分成長のあり方が異なるは論をまつまでもない。

さらにその一個の種子がその場へ如何運ばれたか・・・風に流されたのか?・・・動物の糞の中で運ばれたのか?・・・あるいは水に流されたのか?・・・ひょっとして人間の手によってそこに運ばれたのかもしれないのであり、これはそのとき無力な一個の種子にとっては「運命」というに値する出来事ではないのだろうか?・・・。

そしてその成長しつつある樹木がたまたま山火事にあって立ち枯れしたり、あるいは悪い害虫に食い荒らされたり、突然の台風に生木を折られたり、さらには落雷を受けて幹が裂けたり、また人間の手によってノコギリで根元から切られたり・・・このように樹木の立場から見れば数え上げればきりがないほどの災難に巻き込まれる可能性?・・・がある。

わざわざ可能性に「?」マークを付けたのは、そうならない樹木も中には存在するし、アクシデントにも軽重があるからに他ならない。

災難に遭う樹木、遭わない樹木・・・これこそ種子の落ちる最初の一歩から、樹木自体が自分でその居場所さえも選択決定できない「運命」なるものの偶然性にその生命を委ねざるを得ない・・・いわば自分の意志を越えたところで働いている捉えどころのない混沌の力(パワー)に振り回されることを阻止できない・・・そうした不条理さの中で己が生を保っているというはかなさ、無常観がそこにはあるのです。

この混沌の不条理さはそれが他の生き物であれ、たとえばライオンであれ、バッファローであれ、野うさぎであれ、蟻であれ、海の魚類であれ、空を自由に飛ぶ鳥類であっても同じであり、いわんやもちろん人間であってもである。

すなわちこれを人間の誕生から、その後の一人々々が辿るであろう人生に置き換えても結果は同じであると言わざるを得ないのです。

しかし、この気まぐれで不条理な偶然を受け容れるプロセスがあればこそ人類に哲学が生まれ、宗教も生まれ、文学も生まれる複雑な思考が育ったのであり、そしてその思考を生み出す大海原の明と暗の混沌の果ての中で、ある者にとっては奈落の底に突き落とされるような不幸が襲いかかったり、あるいは逆にこの世の栄華を一身に集めるような幸運がもたらされたりもする・・・ここに否が応でも「運命」なるものの存在性をかいま見るのである。

ただ喧嘩が強ければ勝ち残って栄華を極められるわけでもなく、また弱虫だからと言って不幸に嘆き悲しむばかりではない。
また善人正直だからと言って開運が保障されるわけでもなく、逆に極悪非道であっても「運」を開く者もある・・・まさに「運命」とは計りようのない、しかしとてつもなく大きなパワーを生きとし生けるものに対して好むと好まざるとにかかわらず影響を放ちつづけているのです。

この不条理で定見のない、しかし気ままで神秘的でもある偶然との遭遇こそ「運命」そのものと言えるが、我が運命学的な見地からすれば「運」と「命」とはその概念を異にするのです。

すなわち「命」とは同じ樹木で例えれば樹木そのものの種類、松であるとか、梅であるとか、桜であるとか、あるいは杉であったとかの種類そのものの違いや、さらにはそれがどの場所に根付いたのか、岩場なのか、急斜面なのか、平地なのか、肥えた土地なのか、痩せた土地なのか、陽がよく射す場所なのか、あるいはそうでないのか等々、いわば樹木が発芽した出発点における根本的な環境と個性の違いを論ずるところのものを「命」と定義するのです。

それにひきかえ「運」はその樹木が成長する過程での変化、すなわち台風に見舞われるとか、落雷に不幸にして遇々当ってしまうとか、水害に遭うとか、たまたま前方の木が大木に生長して日陰になってしまうとか、その木にとって天敵の害虫が大量発生して立ち枯れてしまう等々、いわば成長の過程で起きるさまざまなアクシデントや、逆に前方にあった大木がたまたま伐採されて燦々と陽射しが入るようになったとかのラッキーをも含めた出来事の数々、これら偶然の積み重ねをすなわち「運」と定義して二つを区別しているのです。

これを人間の一生に戻せば、オギャーと生まれたその時から、男だったか、女だったか、家族構成はどうであったか、兄弟姉妹はいたのか?いなかったのか?居れば自分は何番目の子だったか、父はどのような人か、母はどうか、父の職業は?生活状態はどんなであったか等々、つまるところ自分という個性にとって有利な環境の下に誕生の瞬間を迎えることが出来たか否か・・・これらは総てが自分では何一つ決められない偶然性であり、言うまでもなく「命」によって定義された事柄と言えるのである。

さらには誕生した赤ちゃんが成長する過程の中で食中毒に遭うかもしれないし、転んで大怪我をするかもしれない、たまたま受験のときに体調を崩すかもしれないし、学校選びを間違えるかもしれない、家庭の事情の変化で進学を諦めることになるかもしれない、悪い友達のために事件に巻き込まれるかもしれないし、よかれと思って転職したことが裏目に出るかもしれないし、愛し合って結婚したのに別れてしまうかもしれない・・・。

あるいは逆に転職が功を奏するかもしれないし、援助者が現れてよくしてくれるかもしれないし、薦められたことがきっかけとなって福がもたらされるかもしれない・・・これ等いくつかの選択の偶然がその後の人生において大きく影響を及ぼすということは誰もが感得していることであり、これこそ「命の運び」であり、すなわちこれを「運」と定義しているのです。

さらに例えれば、車が道路を疾走しているとする・・・。
どのような車なのか?スポーツカーなのか、大型なのか小型なのか、高級車なのか大衆車なのか、エンジンの大きさはいかほどなのか、あるいはオートバイかもしれないし自転車かもしれない、トラックかもしれないしワゴンタイプかもしれない・・・これ等「車」の基本的なスタイルや性能の違いは運命学的には「命」の範疇に属するのである。

これに対して車が走る道路の状況やその時々での環境の変化もある・・・いわく泥道、坂道、穴ぼこの道、曲がりくねった道、崖っぷちの道、広い道、アスファルトの整備の行届いた道、さらには走行中の豪雨、落石、突風、相手のセンターラインオーバー、居眠り、わき見等々、これら道路状況の有利・不利、あるいは不注意の積み重ねは一歩誤れば重大事となりかねないのであり、これすなわちすべからく「運」の分かれ道でもある。

「運」と「命」をセットで考えれば、ピカピカのスポーツカーで田んぼのあぜ道を泥だけになってノロノロと走っているケースもあれば、大型の高級車で石ころだらけの山道を車の傷を気にしながら走っているということもあるのであり、年代ものの傷だらけの軽自動車だが幸いにしてアスファルトの見通しのよい道をトップギヤで疾駆していることだって “有り” ということにもなるのです。

まさに運命とは微にして妙であり、なかなかこの偶然の綾を解く合理的な鍵を見出すことが、現代の進んだ文明の力をもってしても未だ解明出来ていないのが実情であります。

運命学はこの偶然の綾を解く手段として昔から細々ながら綿々と引き継がれてはいるのだが、たとえ兄弟姉妹といえども一人一人性格も違えば辿る人生も異なるほど現実に幅があって、これを統一的にかつ論理性をもって「運命」なるものを合理的に解釈する確実な手段を未だ人類は手にしていないと言える。

あえて言えば、今あるさまざまな運命学の中でボクが知る限りでは四柱推命学のみがそれに近付こうと一生懸命に論理を展開している唯一の運命学といえるのではなかろうか。

もし運命なるものを知るための手段として四柱推命学に少しでも興味があるなら、是非一度龍得水ホームページ上で公開している<始めから学ぶ四柱推命学「基礎編」>をご覧いただければどのような運命学であるかがご理解いただけるものと思います。
ここをクリックすれば解説ページ「基礎編」のトップが開きます。

このように「運命」は漠として捉えどころがなく、それでいて人生に深く密着して大きな影響力を行使し続けているまことに厄介な概念であり、いわば「運」と「命」はその人がどういう人間か?・・・どういう価値観でどのような人生を送るのか?・・・といった究極の個人情報が集中した最もプライベートなものでもあり、これらが展開されて明らかになるということは、重要なプライベートが丸裸にされる危険も背中合わせに抱えることを避けては通れないのである・・・。

このことの善し悪しの問題はまた別の機会に譲るとして・・・。
もしこの「運命」なるものが少しでも科学的に、かつ合理性をもって解明されることがあるとしたら・・・ひょっとして最先端の「DNA」研究にその将来性が託されているのかもしれない・・・??。

運命については関連エッセーとして「29 運命と個人の分限・・・成功の黄金比率とは」というタイトルで追加掲載しましたので、上記タイトルをクリックして併せて一読いただければ幸いです。

2007/08/23

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 26 占い師の分限・・・?

運命学というジャンルが種々雑多で、とても運命学とは言えない個人的なお遊び程度のものも含めて氾濫しており、まさに玉石混淆の観を呈しているが、この運命学書の雑多観と同じように、巷にあふれた占い師と呼ばれる “人種” もまた同じく玉石混淆の観を否めない程に、ピンからキリまで枚挙に暇(いとま)がない・・・と言わざるを得ないのである。

度胸一番、“私は今日から占い師です” と言えばぞの日から貴方はもう “立派な?” 占い師であり、占い師になるのに何の条件も、資格も要らないのです。

たとえば、四柱推命学を謳う占い師は数え切れないほど居るが、実際は四柱を組織して “少しぐらいはみれますよ” ・・・といった程度の者が大半で、なかなか四柱推命を本当の意味で良くする者は10人に1人として居ないのかもしれない・・・そういう世界?・・・でもあると言えるのです。

これは “のろま” なボクの経験則からではあるが、占い師としての3年、5年程度の経験では、まだまだヒヨッコとしか言いようがなく、やはりボク自身過去を振り返ってみて、この道も年期が物言う世界かな・・・と、30年以上経った今になってつくづく思うのである。

しかし逆な見方をすれば、この道で20年、30年精進した者であれば、それなりの影響力を行使出来るだけの術(すべ)、すなわちそれなりの力を持つものでもあり、あまり経験豊かな占い師を侮ってはならないのです。

人を不幸のどん底からたちまちにして幸福に一変させるということは、いかなる手段をもってしても至難の業と言う他ないが、しかし経験豊富な占い師であれば出来得る限り人が更なる不幸に陥らないように導くだけの術(すべ)は持っているものであります。

さらに言い換えるならば、人を早々簡単に幸福に導くことはなかなか難しいが、逆に不幸はちょっとした後押しで容易(たやす)く誘導出来てしまう・・・それぐらいの力は長年この道に携って居れば備わってしまうのである。

すなわち人生とは、あたかも水が低きに流れるが如くに、絶えず、不幸に不幸にと滑りやすいようなパワーが働いているのであり、その力は常にその者の背中を押し続け、“事あれば” と、油断の機会を狙っているのです。

このように人は・・・と言うよりは何事も、上昇するよりは下降する方がエネルギーを必要としないのであって、これは計らずも引力の法則にイコールしていると言うべきであろうか?・・・。

これを身近な問題で例えれば、仮に目の前に100段にも及ぶ階段が立ちはだかり、これを登るに足腰が弱って自力では登ることすら出来ない自分がそこに居たとすれば、この状況で上に登るには偶々(たまたま)「運」良く屈強なる者がその場に居合わせ、かつその者が我が身を背負ってまでして同伴してくれる必要があり、これを100段まで持続するには3人、4人・・・あるいはそれ以上の手助けが不可欠となるほどの「幸運」を含めた大きなエネルギーが “いる” ということになる。

逆にたとえ我が身が幸運に恵まれ続けて100段の位置を登りつめて居たとしても、そこから下に落ちるときはほんの少しのエネルギーが加わるだけで落下してしまうのであり、たとえば子供にちょっと背中を押されるだけでも落っこちてしまうほど呆気(あっけ)ないのであって、上に登るのと下に落ちるとでは、その要するエネルギーは比べものにならないほど差異があるのである。

事ほど左様に、漠として掴(つか)み所のない「運」の吉凶を分けている運動の原理は意外にも地球の引力に寄り添った形で働くとも言えるのであり、だからこそ、たとえそれが「人が更なる不幸に陥らない」程度の占いであったとしても、その効は大なるものがあると思うべきなのであって、そのとき始めて占いの効用も顕(あきら)かとなるのです。

「たかが占い〜されど占い」と、昔からよく言われるが、“たかが占い” といえども侮れないからこそすなわち “されど占い” なのである。

まさに人の幸・不幸は背中合わせの紙一重のところで「揺れて」いるのであり、夢々、経験豊かな占いを馬鹿にすることなきように・・・そして「不幸の種」は絶えず根気よく摘んでいくことが幸福への一里塚であって、これがたちまちのうちに暗転しないように・・・すなわちこれこそが「占い師の分限」としての力の発揮のしどころでもあり、また上手な利用法でもあるのです。

2008/04/03
2012/04/27 最終加筆

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 27 自由故の拘束感?・・ 豊穣故の飢餓感・・?

自由ということは簡単に言えば自分の生き方、すなわち人生を自分の意思で選べるということであろうか・・・。

ただし、自分で「選べる」からといってその通りに「成る」ということまでを保障するものでない事は改めて言うまでもないことである。

何事も始めのプロセスと、終わりの結果があるのであり、この始めのスタート台に立つことの自由をでき得る限り門戸を開いて誰にもチャンスを認めるということで・・・つまりは参加する自由はとりあえず担保されるがその結果である成果はその者の才能と、努力と、運?しだいだよ・・・と、いうことでもある。

自由ということは何でも自分の思い通りに「成る」ということと一瞬錯覚しやすいが、実は、結果において不平等極まりない不自由な立場に追いやられることも自由競争というフィールドの中で許しており、それは人によっては一生不自由を強いられるような人生も有り得るということで、現実の人生においては否応なしにこれを誰もが実感し、否定できないでいるのです。

人間は・・・というより動物には一人ひとり、あるいは一匹いっぴき、たとえ同じ種であっても微妙にそれぞれに個体差があり、その生命力の維持は原則的に「強い者勝ち」で淘汰されていくのが自然のルールといえる。

いわゆる弱肉強食の原理である・・・。

そしてさらに言えば、生き物にはそれぞれに生まれながらの強弱や、優劣の個体差があり、この厳しい自由競争のフィールドの中で勝ち残る確率の高い者は楽観的に見積もってもせいぜい20パーセント位のものであって、あとの80パーセント以上の者達は、この自由競争社会での赤裸々な勝ち残りゲームの渦の中で先頭集団を走り続けるには精神的にも、肉体的にも、さらに付け加えるならば運命的にも不向きな優し過ぎる者達といえる。

すなわち、弱肉強食のサバイバルゲームを勝ち抜くことを是とする生き方は多分に狩猟民族的な価値観であり、これこそが現在をリードする自由な競争資本主義社会のバックボーンをなすものでもあろう。

これに対比した生き方としては、自然の中に土着した村社会を形成し、五穀を栽培してこれを糧とする農耕民族的な価値観がある。

前者の狩猟民族的な生き方は個人主義的な価値観がよりフィットするし、後者の農耕民族的な生き方は協同作業を通して他者と価値観を共有することが不可欠で、これによって集団的な社会ルールが個人の自由より優先される自己抑制的な社会主義的価値観が醸成されるのであろう。

どちらの方が人間らしいのか?・・・あるいはどちらの方が優れているのか?・・・はたまたどちらの方が理想なのか?・・・は、また別の機会に譲るとして、ここで簡単に言えることは個人としての自由度は窮屈になるが社会的な錬度の高さとしての人間性は、より農耕民族的な集団生活の方が磨かれるであろうことは容易に察せられる。

話を本題に戻そう・・・。
すなわち自由であるということはあらゆることが自己責任に帰するということでもあり、その自己責任の範囲内で始めて行使できる権利・・・というより自由を確保すると言うことはむしろ権力と同義語の「パワー」なのである。

言い換えれば、誰もが自由を欲する中にあって自分が常に自由を獲得し、これをキープするということは、その自由を自らが勝ち取らなければ結局は自由であり得ないという・・・自由であるというささやかな願いさえも、所詮、勝ち負けの論理の延長線上にあるという大きな自己矛盾にブチ当たってしまうのである。

さらに言い換えれば、誰もが入口においてはある程度自由が担保されているが、その自由を謳歌するには常に競争を勝ち抜いていく必要があり、そしてその勝者は何時の世であっても少数の「選ばれし者」であるという事実を、「選ばれし者」も、また「選ばれざる者」も双方が同じ土俵の上できちんと理解していなくてはならないのである。

そのとき始めて「選ばれざる者」が「選ばれし少数派」に属することが出来なかったとしても、依然として、あるいは当然の如く、単に自分が多数派の一員に止まっているだけで落伍者に転落してしまったわけではないことを強く自覚することが出来る。

この思考のスムースな転換があればこそ多数派の中での意義ある自分の生き方を再模索することが可能となるのであり、そしてそれには大前提として “エリート人生だけが人生ではないよ” という多様な生き方を皆が共通認識できるよう、社会は若者のために名誉ある次善の生き方の数々を提案し続けなければならない義務を負っているのである。

何故なら、「選ばれざる者」それ自体が常に多数派であるからであって、この多数派を救済出来ないような社会、あるいは政治は、その瞬間すでに民主主義とは言い難いほど多数に応えていないことになる。

そもそも民主主義とはそういう制度ではなかったのか・・・??

近年自由の中でその自由を行使できない不自由な者達がどんどん排出されている。
戦後の自由な個人主義は夢と野心を大きく膨らませてきた・・・が、その反面で自分が不自由な多数派に属する確立の方がはるかに高いのだという厳然たる事実を、我々大人を含めて社会は若者たちに教育し、躾ける作業を怠ってきた・・・。

いや、逆に我が子が少子化、高学歴となっていく過程で、“我が子だけでも”・・・と、誰もがあたかも「選ばれし者」に勝ち残り、自由を謳歌して暮らせるであろうことを切に望んだのであり、そして多分そうなるであろうという期待と錯覚の夢見心地の中で、我が子が無残に崩れて行く現実を見なければならなくなったと言うべきかも知れない。

家族からも、また社会からもそこそこの人生を期待されて育った者たちの結果は当然と言えば当然だが、20パーセントの期待通りの勝者と、80パーセント以上の敗者、すなわち心の落伍者を多数生み出し続けてきたのである。

これはもう自由という名の下で繰り広げられた、まさに閉塞した不自由の協奏曲そのものではないのか?

社会が20パーセントの勝者を称えることに異論はないが、しかし多数を占めるはずの、たまたま第一ラウンドをつまずいてしまった者達のプライドある次善、さらに言えば三善?、四善?の生き方の提案が、しっかり行き届いて準備された社会こそが目指す社会の在り方ではないのか・・・?

そしてそれは行過ぎた?アメリカンスタンダードの自由な競争資本主義社会とも何ら矛盾しないと思うのだが・・・。

何時でも、何処でも再チャレンジ、再出発できる人生を社会が保障することが次善、三善、さらには四善の生き方の自由を担保することであり、さらに言えば、生き方の多様化とは競争の過程の中で必然的に生じる勝者と敗者との間に幅広いグレーゾーンをもった社会ともいえるのである。

このグレーゾーンの中にこそ多様化が息づくのであり、その幅が狭い社会は画一的な成功神話だけが20パーセントの少数派の自由を満たすのみで、多くの者は少数派の自由の中で未だ自分が依然として多数派に属しているにもかかわらず、まるですでに落伍者でもあるかのような錯覚に陥って心が閉塞し、他の生き方を模索出来ないまま社会そのものからドロップアウトしてしまうのである。

自由競争社会は次から次へと欲望を駆り立て、物質的な豊かさと便利性を追求し続けることで資本の回転は飽きる事無く、また止めどない・・・。

巷には新製品が溢れ、これが欲望とリンクすることでどんどん消費され、人は知らず知らずのうちに前のめりに、前のめりにと幸福感を求め続けており、それはあたかも麻薬の中毒患者のように際限のない枯渇感の衝動に駆られながらも、この歩みをなかなか止めようとはしない・・・。

人はずっと以前から “貧しいから心が豊かになれないのだ” と思い、信じ続けてきた・・・が、この豊かさの中で心が荒(すさ)み、便利さの中で焦り、やっとの思いで豊かになったにもかかわらず慢性的な心の飢餓感に襲われ続けるのは何故なのだろう・・・?約束が違うではないか?・・・と。

我々はどこかでボタンを掛け間違えてしまったのであろうか?
しかし、かといって前の貧しさに、あるいは不便さに戻ればすべてが解決するとは誰もが思ってはいないであろうことを考えれば、その方向性がまったく誤りであったとは言えないのも事実である。

昨今盛んに言われだした「スローライフ」という生き方・・・これを昔的に言えば「晴耕雨読」の言葉に似たものがあろうか・・・いわゆる “自分のペースでゆっくりと”・・・さらに言えば “晴れた日は田を耕して働き、雨が降れば読書して思索にふける”・・・すなわち詰まる所は自分のペースで自分なりにということであろう。

この「スローライフ」を支えるのは豊かさであり、教養であり、さらに言えば多様な生き方を受け容れる制度も含めた社会であり、それを後押しする政治でもあるといえる。

人間が本然的に有するところの競争心とか、誰からも束縛されたくない自己の確立、あるいはあくまで自分を中心とした種の保存等々、これらは動物としての人間が持つ生き残りの本性でもある。

人間が「神」に等しいほど「神そのもの」に近づかない限り、社会制度の如何を問わず動物としての人間は、今までも、そしてこれからも、この競争社会のフィールドの中で「運の良き者」20パーセントと、そうでない者80パーセントを作り続けるであろう。

であるからこそ競争社会で色分けされ続ける勝者と敗者の間に、出来得る限り幅広いグレーゾーンを構築する意義があり、そしてまさにこれこそが多数決を原理とした民主主義の理念にも合致するものであると信じて疑わないのです。

ことここに至っては皆でこのグレーゾーンの効用を自覚し、そして見直し、さらに一歩進んで称えようではないか・・・

そのとき始めてこのグレーゾーンが「心の揺り籠」のような・・・すなわちプライドを維持した多様な生き方を模索する拠り所となり、多数派が敗者ではない自分の生き方を実践することで、少数派の成功を素直に称えることの出来る社会が醸成されていくと思うのだが・・・。

2008/04/06

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 28 自我と帰依・・そして信仰心

自我とは自分自身と他者を区分する概念でもあり、それは「個」が確立するために必要な「思考」を推進するエネルギーとなる。

そしてこの自我はさらなる自身のアイデンティティを求め、それをより確固たるものにせんと欲して自己増殖に駆られ、その結果としての他者と、自分との差別化を希求し続けて止まるところを知らない「自我」でもある。

人間が人間である・・・否(いや)自分が自分である・・・否々自分が自分でなくてはならない・・・その確認・・・すなわち “自分は何のためにこの世に「生」を受け、どう生きていけばよいのか?”・・・あるいは・・・“生きるべきなのか?”・・・こうして芽生えた自我は自らを個別化することで自己存在を確立しようと試み続けるのである。

このように個別化される自我は個性の源泉であり、個性は他者とのより明確な差別化で確立されるという現象そのものが、結果として容易に他者に対する優越性にとって替わることで欲望が肯定され続ける矛盾を生み、自らの実存を証明するはずの「自我」と「個性」と「差別」の狭間で心は揺れるのである。

個性を確立する過程での自分自身を際立たせる他者との差別化が、容易に自分と他者との単なる「差別」に変貌してしまうことにいくらも時間を要しないであろうし、むしろそうなることのほうが自然と言える。

そして差別したり、差別されたりする人間関係に喜怒・哀楽が生じ、個性の成り立ちの中に優越する心地よい欲望の達成に比例して得られる際限のない自己確認が潜むに至って、差別の中で確立した自己の存在そのものに「悪意と罪」が芽生えるのであり、これが逆流して心地よく確立したはずの自己存在そのものの正当性を根本から突き崩すのである。

「人間は神のように生きられない」・・・この瞬間、人間は自らが理想として掲げた「神」なる者の中に自らの救いを投影し、所詮「神」のようには生きられない「自我」ではあるが、“せめて「神」に近付く努力は致します・・・” と、その理想の「神」に約束をすることで「自我」と「神」とのギャップを正当化し、さらには自らの「悪意と罪」をも正当化しているのやも知れない。

そのギャップを強く感じれば感じるほど「神」への思いもまた強くなり、自らが理想としての「神」に熱烈に帰依することで一体感を持ち、ここに至って「神」に近付いている自己という “新たな自分” を意識し、別な個性とアイデンティティの優越感に浸る一個の「神に近付いた自我」が、“自分は「神」に近い存在である” という自己満足を抱きつつ、自らの罪と悪意を意識しない形で復活・再生するのである・・・。

すなわち「神」への100%の一体感は自らの自我を薄めた100%の「神」への帰依であり、さらに「神」への100%の帰依はその帰結として容易(たやす)くその「神」への100%の隷属、服従に取って代わってしまう危うさを内包しているのである。

それ故に「神」に近付くために懸命に自我を薄め帰依する信仰厚き者が、聖戦という名の下にいとも簡単に武器を持った戦士へと早代わりしてしまう歴史の事実と皮肉を人類は未だに否定できないでいる・・・。

自らが「神」に近付くことで再生されたこの「自我」は、自分が熱烈に「神」を信じているが故にその内に潜む「悪意と罪」を償ったものと心の中で清算してしまい、さらに返す刀で自分はその「神」から選ばれた特別の存在であるかの如くの、いわばある種の「選良民」意識を強く持つに至る。

ここに「罪と悪意」を心の中で清算することが出来る新たな「自我」が誕生し、その自我は神から選ばれた選良民であるという強い自意識で自身の存在理由を定義し、故に自らが絶対正義を体現する資格を有した神から選ばれた戦士なのだ・・・と、自分自身の立場を正当化するのである。

人は自我を持つことで個の存在を確認し、その個を意識することでより明確な個の確立を希求し続けるのであって、その個を確立するプロセスで差別と欲望が肯定され、優越と劣等の感情の軋轢に悩み、傷つき、さらには傷つける自分自身の存在そのものに疑念を抱き、自我の成長と共に増殖する悪意と罪におののき、自らの存在に希望を失ったところで救いとしての「神」を見出そうともがくのであろう。

これをオウム真理教という日本を震撼せしめた事件で考えても同じことが言えるのである。
彼らは教祖である麻原彰晃が唱える教義に強い共感を覚え、これを信じることで自らの救いの手段としたのであり、教祖はそのとき導師であり、当然の如く信者は自分より「神」に近き者という意識で教祖に接したであろう事は想像するに難くない。

そしてその思いが強ければ強いほど、導師である教祖の教えはより「神」に近き者の教えから・・・イコール=「神」の教えを直接体現する者の教え・・・という形で昇華され、これに帰依することで救いは実現されると思った瞬間、理想の人間、理想の社会の実現へのエネルギーが、知らず知らずの間に隷属と服従のエネルギーにイコールと変化し、罪と悪意は自らの心の中で清算されてしまったと言える。

何故ならば、“我らは凡庸な?一般の者よりは「神」なるもののおぼし召しに少しでも近付いている選ばれた人間なのだ”・・・と、自らの行為を正当化する新しい「自我」を構築したからに他ならない。

そのとき詐欺であれ、それがたとえ殺人であっても「神」に選ばれた自分達が理想社会実現の為に実践している行為ということで、本来日常的に持っていたはずの罪と悪意さえも「選良民」という思いの彼方で清算され、罪の意識を薄れさせてしまったのであろう。

100%の帰依が簡単に100%の隷属や服従に取って代わってしまう危うさの論理的矛盾は、多分自我を空しくして「神」に近付き、その「神」と一体化したいと強く願う心のプロセスの中に潜んでいるのであろう。

どんなに願い続けても自我を確立したまま「神」と等しくなるには、結果、自分が「神」そのものに成ることでしか成就しないと思われるほど困難なテーマである。

すなわち自分自身がそのまま「神」になるということは、その瞬間自分が「神」になったと自覚することでもあり、このこと自体がすでに尋常なことではないのであって、“我は「神」なり” あるいは “我は「神」と一体の存在の者なり” と自身が真剣に信じ、世間に宣言するということ自体がもはや普通の精神状況とは到底思えない、いわば精神医学の範疇に属する手当てが必要な問題とも言えるのである。

しかし人間が人間のままでは到底「神」とはなり得ないということでは一生救いが無いと思う思い方もあるのであり、そうした者にとって “自分は成れないかもしれないがこの人は「神」と一体のお方なのだ?”・・・と、真剣に思える人間が自分の眼の前に現れたとき、その者に100%帰依することであたかも自分自身も「神」に近付けたという実感に浸ることが出来たとしても少しも不思議なことではない。

それこそがその者にとっての「救い」であり、その喜びの実感が信じた者への100%の従属となったとしても、プロセスとしてはむしろ自然な成り行きと言えよう。

それがたとえ性格破綻者と紙一重の者であったとしても・・・。

ボクなどはむしろ逆に “我は「神」なり” と宣言する者が自分の眼の前に現れたとすれば、その者がどんなに尊敬に値するものであったとしても、本人がそう宣言するのであるから敢えて否定はしないが深く関わり合うことには危惧を感じて遠慮するであろう・・・幸か不幸か未だそういう者と遭遇したこともないが・・・。

ただ結果として「神なる者」に100%帰依するということは「神」に近付いたと思い込む「選良民」意識を強く持った新しい「自我」の誕生であると同時に、逆にその「神」に100%従属することで自らが求めて止むことのなかった本当の意味での「自我」を100%失ったとも言えるのである。

「神」あるいは「神なるもの」を信じるということは、これほど危険な心のプロセスが潜んでいるという認識が信じる側にも常に必要であるということであり、信じた相手次第によっては奈落の底まで付き合わせられる羽目に陥ってしまうことも、実際の事件としてマスコミをよく賑わせている事実がはからずも証明している。


もうそろそろ人類は自らの混沌と不安の中で創り出した「神」なる者への「依拠」から脱却し、この不条理で不確かな「混沌」に再び立ち戻り、絶対的な「神」という名の下に我が身を制御、コントロールするのではなく、人類共通の「イデア」・・・すなわち混沌を受け入れ、かつこれを乗り越える理性的な概念の確立に世界がこぞって想いを致すべきと思うのだが・・・。

すなわち根本原理がイコール=「神」ではなく・・・、もっと民主的な形で自我を拘束し、共通認識としての正義を称えるような形での根本原理イコール=「憲章」と言った概念が、人類共通の「イデア」として絶対的な「神」を融合・超越する形で打ち立てられてもよいのではないのか?と、思ってしまうのだが・・・。

そしてこの共通認識としての「憲章」なるものを世界中の教育現場で日々実践し、地球市民としての共通のマナーや正義を、民族や宗教を越えた所でそれぞれの「自我」に対するバックボーンとして繰り返し繰り返し教育し、これが土台となって世界中の人々が日々の生活規範として体得・継承することで人類は絶対の「神」なるものを卒業できるのやも知れない・・・。

ただ、ひょっとするとそれは「神」も「教祖」もいただかない「世界宗教」のような性格を待った“新しい宗教”かもしれないが・・・?

これを皮肉な帰結と思うべきか?・・・それとも当然の帰結と思うべきなのか・・・?
それは50年先なのか?・・・あるいは100年先なのか?・・・ボクにもその行く末はわからないという他ないほど長い時間を要する問題でもあるといえようか・・・。

2008/09/15
2009/09/25 最終加筆

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 29 運命と個人の分限・・・成功の黄金比率とは

「人生は誰もが平等であり、努力次第であらゆる可能性と、結果としての成功の美酒を勝ち取る事が出来る・・・だから君も死ぬほど努力すれば成らないものはないのである!!」・・・と、上から目線でよく耳にする言葉だが本当に “死ぬほど努力すれば成らぬものはない”・・・と、言い切れるのだろうか?

人間それぞれの人生を考えるとき、この言葉を是とするか?・・・あるいは非とするか?・・・は、なかなか軍配を一方に挙げられない虚実があるとしか言いようがない。

たとえば総てが「運命」なるものに支配されていて、人間が行う「努力」などと言う小さな行為は所詮「焼け石に水」程度の微力な効力に過ぎず、“懸命に努力しても結局大勢は変わらないんだよ” と、するならば?・・・これでは生きて努力する甲斐もなく、全ての結果が「運」次第となってしまい、人生そのものが諦観主義に陥ってしまうであろう。

しかし、だからと言って冒頭に掲げたように「死ぬほどの懸命な努力」・・・で皆の願いが本当に叶うと言い切れるであろうか?・・・かえって無理が祟って取り返しのつかない重い病に陥ってしまう場合だってあるだろうし、あるいは懸命な努力の最中に不幸な事故に見舞われて再起不能の状態になってしまう者も居ないとは限らない・・・。

詰まるところ、「努力は大事だが、それで全てが解決する訳ではない」・・・と、言うことであろうか・・・これでは何の解決にもならない、それこそ詰まらない解答ではあるが・・・。

ただ、別な見方から考えた場合・・・たとえば運動能力・・・。
走力(足の速さ)を例に取れば、生まれながらに足の遅い者が懸命に努力したからといって果たして一流のアスリートになれるだろうか?。
あるいは肩の弱いものが死ぬほど努力したからといって、イチローのような強肩振りを発揮できるようになれるのだろうか・・・?。

このように個別の才能は単に身体能力だけに止まらず、かなりの広範囲で生まれながらに感じる優劣の自覚を誰もが人知れず認識しているのではないかと思われるのですが・・・。

すなわち、これら身近なちょっとした事実を確認するだけで、すでに生まれたときから “誰もが平等ではない” という実感を現実的に否定できない・・・と言うべきであろう。

個性としての才能は社会的に認められてこそ始めてその個性なり、あるいは才能が発揮されたと評価されるのであって、評価が追随しない才能は最早その瞬間から才能とは言えないほど希薄で、結果として「報われない個性」となってしまうのである。

社会的に認められて「報われるか」、あるいは「報われないか」は、生まれたときから既にこの現実社会で社会的に生きることを強いられている人間にとって、生きて居るささやかな結果であり、確かな証明でもあり、まさにその者にとっての実存そのものでもあるのです。

しかしこの実社会にあって「人間誰もが成功者になれない」と言う事は、少し周りを見るだけでも拭いようのない明々白々の事実であり、努力はささやかであっても生きている証しを積み上げることでもあるから大切だが、その結果の平等さえも保障している訳ではないのである。

それでは幸い成功できた者と、残念ながら成功に及ばなかった者、あるいは成功の端緒さえも掴めなかった者達の現実社会での有り様を如何理解すれば良いのであろうか?

これを理解するに今更多弁を要するまでもなく、古今東西の歴史と、結果としての現実社会が雄弁に物語っており、実証サンプルを含めてちょっと身の回りを検証すだけでその確率的実態は把握できるのである。

それはよく営業の現場で言われることだが、営業マンが個別のセールス活動した場合の成果確率を、“10件ノックして1件がかろうじて話ぐらいは聞いてくれ、その話を聞いてくれる家が10件以上となって始めて1件のオーダーが取れる”・・・という確率論である。

すなわち、“1件のオーダーを取るためには確率的に100件以上のノックが必要である”という実戦的単純理論で、この「10分の1」、「100分の1」成功確率論は、単純で何の根拠もないあやふやな理論かも知れないが、意外とあらゆるファジーな事柄に適用できる黄金比率とも言える。

ひるがえって現実社会を考えた場合、皆が皆、成功者となって大出世すると言う訳にはいかないのであり、これを分かりやすく軍隊で例えれば、誰もが将軍ばかりでは軍組織は機能しないのであって、多数の一兵卒が居て、その上にそれなりの下士官が居てこれを束ね、その上に下士官以下を束ねる形で上官が居て、さらにその上に全体を掌握する少数の将軍が存在する、いわばピラミッド型の組織図の中で軍隊は機能され、人間関係も成立しているのである。

さらに言えば、これを会社組織に置き換えても同じであり、大勢の平社員の上に係長が居て、その上に課長、さらに上を見れば部長、そして取締役、最後はその会社のトップである社長に昇りつめてサラリーマン「人生すごろく」の「上がり」となる・・・。

このピラミッド構成に「10分の1」理論をあてはめれば、10人の平社員の中から1人の係長が誕生し、10人の係長の上に1人の課長が誕生することになり、そのとき平社員は100人を数えることになる。
さらには10人の課長の上に1人の部長が誕生することで必然的に平社員はこのとき1,000人にも及ぶのである。

あらゆる人間関係において人は意外と平等・公平のフラットな関係を選ぶより、むしろピラミッド型のタテ・ヨコ複雑な関係の方がより安定性がある・・・と、いわば自然発生的に構築された様なものであり、「群れを成す」人間が自ら下した、いわば「合理的な秩序社会」の選択であったと言うべきであろう。

これを一生平社員で終わってしまった者から見れば不条理極まりない不平等とも言えるし、多少の努力の賜物か、あるいは少しばかりの「運」があって係長で終わった者から見ても同じように不条理で不平等と思うのかも知れないし、さらには、課長や部長から見ても、いやいやそれがたとえ重役でさえもトップを仰ぎ見れば答えは同じであろう。

このように個人から見れば常に不条理で不平等であっても、逆に群れを構成する中で序列や秩序を構築することで個人的な無用の争いを避け、これを自らの安寧の盾とする社会全体から見た場合、誰もが将軍、誰もが社長ではむしろ社会は無秩序となって機能しないのであれば、逆説的ではあるがもし「神」が存在すると仮定すれば、その「神」なる者は人間をバランスよく一兵卒から将軍まで「産み分けている」とも言えるのである。

すなわち見えない分限のようなものが、まるで自然の大法則にでも従っているかのごとくに、人間一人ひとりをある意味「能力区分する自然の力」として働いているとしか言いようがないのであり、ここに至ってまさに、この個々に内包する不条理な「運命」としての個人的な分限を解き明かそうとする我が四柱推命学の大いなる意義も見出すことが出来るのである。

もちろん、例えそうであったとしても一兵卒から見れば不条理極まりないことに変わりはないが・・・。

しかしピラミッド社会での活動の結果はもともと不条理であり、かつ不平等であって、誰もが死ぬほど努力したからといって社長には成れないのが社会的な現事実でもあるのです。

社会的に報われた者が結果的に富と地位を築くことを “あの人は開運した” と昔から例えるように、社会の中で上に昇り詰めるには「運」が「開く」すなわち他人よりも厚い「運」が我が身に「開く」ことが絶対条件で必要であり、これを平たく言えば「ツキ」に大いに恵まれるということでもあろうか。

各人における「開運力」の差異が、既に誕生の瞬間から有るという前提で四柱推命学は成り立っており、そしてこの前提は現実社会における厳然たる事象とも一致するもので、逆に言えば「開運力」の差異そのものの有無を現実社会の事象が結果として “有りますよ” と追認しているとも言えるのであります。

人間が築いた社会そのものが不条理の結果であるとするならば、我々はこれを如何受け容れ、そして自分自身の人生を、この不条理を乗り越えて如何構築すればよいのであろうか?

四柱推命学はこの問いに対して一人ひとりの人格や能力の違いと、いわゆる開運力の厚薄、すなわち今回のテーマでもある「個人としての分限」を指し示してはくれるが、「如何生きれば良いのか?」までは具体的に提示されてはいない。

しかしその指し示す方向性は、先ずは “自らの分限を知るところから出発しないと何もかもが始まらない” ということであろう。

これを宗教的に言えば、先ず「分を知り」そして「在るがままに」・・・と言ったところか・・・?。

体制の如何を問わず競争は進化し続けて止まることを知らない人間社会ではあるが、しかしその競争の巨大なエネルギーによって現社会そのもののエンジンを動かしている限り、この社会システムにひそむ不条理もまた際限なく淘汰・再生を繰り返して止むことはないのである。

このスパイラルの真っ只中で成功の美酒に浸れるほどの結果を残して生きられる者は、「10分の1」ではまだまだ序の口で、これが「100分の1」でも未だしという他なく、「1,000分の1」となってやっとそれぞれのピラミッドの “高みに登ったよ” といったところであろうか。

ちなみに大相撲では全力士800〜1,000人の頂点に最高位の横綱が君臨していると言われており、さらに言えば、いわゆる大企業といわれる会社に勤めている人は全サラリーマン人口の内でたった1割程度で、残りの9割が中小さまざまの会社に勤めていると言われている・・・。
このように世の中の成功確率はどの分野にあっても結果は同じようなものと思っても差し支えないのではなかろうか・・・。

そしてこのピラミッド組織は上にばかり頂(いただ)きを伸ばしているだけではなく、同じ比率で下部にもその頂を “垂れて” いるのであり、この逆ピラミッドの中でことさらに不幸せな人、あるいは不遇な人達をも同じように「10分の1」、「100分の1」確率論で不条理の連鎖の渦に巻き込んでいるのである。

それはある者にとっては無慈悲極まりないほどの不幸であったり、あるいはこの世の栄華を一身に集めるほどの成功であるのかもしれない・・・のだが・・・。
貴方が一体どちらの「10分の1」、「100分の1」、あるいは「1,000分の1」なのかは「運」の確認をまつしかないのですが・・・??。

この「運命」の無慈悲なまでの不条理を前にして一変に「100分の1」、「1,000分の1」を努力でカバー出来るとは思えないが、せめて現況から「10分の1」を目指す努力は一生をかけてでも、それこそ自らが生きている証しとして努力し続ける意義がある・・・と、控えめにしか呼び掛けることが出来ないが・・・しかし思うべきなのである。

我が四柱推命学はこの一人々々の分限を、多少大雑把かもしれないが指し示すことに一生懸命に取り組んでいる数少ない運命学であり、その効用も奥深いものがあるが故に「運命学の帝旺」とも、あるいは「哲学する運命学」と評される所以でもあるのです。

人間社会の力関係で今も構築され続ける上・下に立体的に現れたピラミッド組織図は、あたかも巨大なコマが自らのバランスを保つために競争という果てしない大きなエネルギーで勢いよく回っているようでもあるし、あるいは中心に行くほど星々が密集してまるで円盤のようになった宇宙銀河の大スペクタルを見るが如きでもある。

もちろんこの密集した星々の一つひとつが位置関係も含めた人間一人ひとりでもあり・・・、そう考えればこの世で人間社会が織り成すエネルギーの力学は、ひょっとして大宇宙の法則ともイコールなのかも知れない・・・。

関連エッセーとして運命を別の角度から考察した「25 「運命とは?」・・・その定義」というタイトルで既に掲載中、興味のある方は上記タイトルをクリックすることでご覧いただけます。

2009/08/06
2009/09/25 最終加筆

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 30 政権交替は民主国家たる証明

2009年8月30日投票日と決まった今回の衆議院選挙は、戦後片山内閣、細川、羽田内閣と、まるで夏の夜の線香花火のようにあっと言う間に消え去ってしまった政権を別にすれば、戦後60有余年を経るその大半が自民党政権による、いわば民主国家の中で粛々と?・・・選ばれた民主主義独裁体制といえるものであった。

それが今回の選挙では様相が何時もの選挙とは随分変わり、野党である民主党が自民党を凌いで第一党になる可能性が出てきたのである。

まさに “遅きに失した” とも言えるし、“やっとここまで来たか” とも言える、・・・待つこと久しき民主国家としての夜明け前の薄明かりの状況とでも言えようか・・・。

選挙である以上蓋を開けて見なければその結果を早計に云々するわけにはいかないが、とにもかくにもやっと民主主義国家らしくなってきたのは事実である。

もちろん、政権が交代したからといって理想郷が生まれる訳でも、目前の難問がきれいに解決する訳でもない事は理の当然であり、民主主義体制とはもともと必要以上に手間ひまのかかる「次善」の制度であって、多様性を排除しないことを一番の是とした、合議に時間のかかる面倒くさい制度なのである。

大切なことは政権政党、すなわち権力構造が変わった方がよいのか、あるいは変わらない方がよいのかの単純な選択であり、さらに言えば変わらない権力構造はその権力が大きければ大きいほど利益集団との癒着と腐敗は長期に及ぶことで当然の如くにマンネリ化し、これをチェックする機能すら麻痺してしまうということである。

最近マスコミの論調も含めてよく言われることは、“自民党政権は今までの実績も長く安心だが、民主党に政権が移った場合その経験も乏しく不安だ” と言う意見が多いようだが、しかし経験は与えてやらなければ何時まで経っても未経験のままであり、これでは政権交代そのものが「百年河清を待つ」に等しくなってしまう・・・実際、既に半世紀以上の時が流れてしまっているのです。

政権交代そのものに多少なりとも権力構造の自浄作用がある限り、我々国民はたとえそれが少しばかりの効果であったとしてもその自浄作用を期待して交替政権を育てるべきであって、それはとりもなおさず国民一人一人が、自らの権利を積極的に行使出来る選択肢を、有効かつ効果的に機能させる最初の一歩でもあるからに他ありません・・・。

それが理想とは程遠い・・・少しばかりの「次善の策」でしかないとしても・・・である。

民主主義というものが、もともと多様化した人間関係の調整を重んじた制度である以上、運用の過程で各人、各団体との利益調整に時間がかかるのは当然であり、その調整の過程で妥協のあまりに理想とは逆行するような結論に至ることもよくあることである。

その点、理想の指導者?がその自らの理想に向かって、一直線に問答無用の独裁的な政治を行う方がはるかに合理的、かつスピーディーとなるのだが・・・。

この「理想の指導者?」にクエスチョンマークを付けたのは、理想そのものにも各人、各様の思いに多様性があるからに他ならないからで、ある者にとってそれが最も理想であっても、別の者にとって理想ではないこともあるのであり、それがひょっとして逆転現象を起こして大多数の者が理想とは思わない事態となることさえ生じてしまう危険を孕んでいるからである。

こうした現象を近年一番分かりやすく体現したのが「オウム」の一連の事件であり、理想を標榜する指導者に権力が集中して独裁的となる幣を如実に示した格好の事例とも言える。

たとえ民主国家での議員選出選挙といえども、その立候補者の「人となり」を理解するのはなかなか難しいものであり、これがマスコミ関係の出演機会が多い者であったとしても、結果的にそれはマスコミ誘導の人間像を理解したに過ぎないと言える。

それは例えれば携帯電話の出会い系サイトで知り合った人をあたかも旧知の友達のように勘違いするに等しいと思えるほど、実際の実像とかけ離れてしまう場合だって多いといえるのではなかろうか・・・??。

人間が人間を理解するためには同じ社会活動の土俵の上に立ってみて、その人の仕事振りや、責任の取り方、人間関係を、ある程度ヨコからも、あるいは直接の両面からもかいま見ることで始めて人間性を把握し納得が得られる高等技術が要るのである。

この点ボクは現況の国会議員同士がその仲間内から首相を選ぶ「議院内閣制」を支持するもので、昨今日本も支持されつつある大統領制のように、直接トップ(社長)を民衆(平社員)がいきなり投票で選ぶ「危うさ」を考えた場合、現制度よりもリスクが高いと言わざるを得ないと思うのです。

すくなくとも大統領制を採った場合は、その候補者の「人となり」をタテからも、ヨコからも理解することが出来る仕組み、すなわち選挙制度をどう「担保」するかが大きな命題であり、間違っても喧騒の中で人気に流された・・・マスコミ虚像に憧れて?・・・その人間性を錯覚したまま投票することのないシステム作りが最低必要であろう。

関連するテーマとして「24 育てよう!民主主義と交替政権」ならびに「33 それでも「政権交替」は必要」が併せて掲載中となっております。
上記表題となる文字列をクリックすれば移動しますので是非ご一読下さい。

2009/08/13

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