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見出しトップタイトル ≪龍得水の人生をエッセー≫

人生をエッセイ  その 2



龍得水の「人生をエッセイ」ページ “その ” には「(11) 心優しき戦士達へ」から「(20) 神と宇宙と」までの以下 ≪目次≫ 欄の通り(10)編を掲載しております。

現況、龍得水「人生をエッセイ」集では “その その ” まで全部で(33)編が掲載中です。

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龍得水の 人生をエッセー
ページ  その 2
≪ 目 次 ≫
       
11 心優しき戦士達へ     16 性善説?・・・性悪説?
12 親から見た子供の結婚運     17 人心を拘束する(パワー)
13 個性的に生きることの難しさ     18 王者(勝者)・・・の振る舞い
14 パラノイアと神の狭間(はざま     19 若者の進路選択
15 心のカウンセリングを問う     20 神と宇宙と
       
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 11 心優しき戦士達へ

人にはそれぞれ生まれながらに定められた、いわば運命的とも言える自分自身を動かす動力源としてのエネルギーの絶対量の違いのようなものがある・・・。

それは自然に備わるところの馬力のようなものであり、自我をなかば強引に押し通す力でもあり、知力、才能というよりはむしろ「胆力」に意味合いが近い。

たとえて言えば
 自分の目標のために長い時間辛抱強く勉学に、または下積みを根気よく耐える力。
 時として喧嘩も辞さずに相手を直接打ち負かす荒々しい力。
 徹夜が続いても3〜4時間ぐっすり睡眠をとれば直ぐに元気が回復するバテないタフな力。

これらは生まれながらの特性能力であり、後年「努力?」をしたからといってパワーは備わらないのである・・・ある意味、一生懸命努力が出来る事すらが、すでに自分はそこそこ恵まれているのだと思うべきなのだ。

もし自らを顧みてこれらの要素が1つでも備わっていると思えたら、両親に、あるいは神に??、あるいは自分に有利に働いた天運?に恵まれたことを大いに感謝すべきであり、今日貧なるといえども必ずや他日競争に打ち勝ち、人並み以上の福禄を築くに至る資格を有しているといえよう。

しかし例え喧嘩強きといえども自分が傷つきやすいナイーブな弱き者であると錯覚しているようであれば、たちまちにその者は他より傲慢なる者として排斥され、せっかくの福運は我が手よりこぼれ落ちることになるであろう事も併せて知るべし。

強き者はことさらに優しくなる必要もないが、最低強きが故の責任を常に果たすことが他者から、あるいは社会から厳しく要求されつづけていることを肝に銘ずべきである。

さて本題に戻そう・・・・・。
喧嘩が苦手で、別に病弱でもないのに身体が疲れやすく、かつ元気の回復が遅き者へ一言。

自分がひょっとして怠け者ではないのかと思い過ぎ、この劣等感を払拭するためにわざわざ無理を重ねて怠け者のレッテルを否定しようとするも、却ってこれが禍して仕事が長続きしなかったり、あるいは頑張りを証明するために自分に向かないハードな仕事を、ことさらに選ぶことで転職を繰り返していたり・・・これはもう不幸の悪循環である。

軍隊でもそうだが、戦士には2通りある。
(1)は戦場の真只中で勲功を挙げ、競争と直接的な戦いの中にこそ自分の力が大いに発揮される者達。
(2)は直接戦場には出ないが弾薬や物資を送ったり、あるいは作戦本部にて計画を立てたり、その者の几帳面さ、企画力が大いに発揮されるような後方支援に向く者達である。

すなわち(2)は優しき戦士達であり、今回のテーマでもある。

人生には直接的な生き方と間接的な生き方があり、この最初のボタンを掛け違えてしまうと、その一歩の誤りから一生立ち直れなくなることもあるのである。

優しき戦士達は、自分の持つその優しさを欠点として捉えるがあまりに、それを自らが忌避し、ことさら苦手な戦場へと「強くあるべき自分自身の証明」の為に駆り出しているとするならば、それはもう滑稽を通りこして悲劇としか言いようがない。

何故なら苦手なことを一生懸命努力しても・・・それはそれで美しい行為かもしれないが・・・しかし、それを得意としている者には所詮及ばないからである。

ここで声を大にして言わなくてはならない・・・。
そう「優しさ」は優しき者に備わった才能なのだ・・と・・・。
誰もが優しくなれないのに自分は優しい・・・また優しいから気が付き、公平に対処できることも多いのであり、だからこそ紛れもなく才能なのである。

しかし優しさを才能として生かすためには教養が必要であり、技術が必要であり、広い意味での知性が人間性の土台となっていなくてはならない。

すなわち優しき戦士達は体力・気力の不足を知力で補うのであり、教養なきときはただの弱虫に転落してしまうことを忘れてはならないのです。

重ねて言う。
優しき戦士達よ、無駄な努力を自分に強いることをやめ、間接的に生きられる道を常に試みよう。
向かない頑張りを捨て、知性を磨こう。
教養と技術で、鉄砲を持った腕力のあるやつを打ち負かしてやろうではないか。

2003/08/09

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 12 親から見た子供の結婚運

結婚には大雑把に分けて恋愛結婚とお見合いによる結婚の二つがある。
もともと男女の結びつきは、根底に動物として無意識的に自分の種を残すために機能した、いわば欲情的な本性に根ざすものでもあり、これをスマートな付き合いのプロセスとして表現すれば「恋愛」ということになるのであろう。

このように恋愛力は動物としての人間が等しく持つところのいわば本性ではあるが、その本性には一人々々濃淡があるということを理解する必要がある。

この生まれながらの濃淡を運命学的に見極める方法は古来いくつもあるが、それとは別にもっと簡単で身近な出来事としての実証法的な確認の方法がある。

そもそもこの恋愛力の濃い人は、原則として学生時代より異性の友達と個人的に交際するチャンスを多く持ち、たとえ恋人が変わることあって一時的に嘆き悲しむことがあるとしても、比較的早くに新しい恋人と出会い、立ち直るようであれば結婚相手は自分で見つけてくるタイプと思えばよい。

恋愛力濃くして結婚に至らない者は結婚できないのではなく、チャンスがありながら決断しないのであり、この区別は親はしっかりとしなくてはならない。

親として一番心配なのは、高校、大学と学生のときから個人的な異性との交際をほとんど持たないままに、あたら青春を真面目?に過ごしてしまっているタイプである。

このようなタイプの人は全体的に異性に対して淡白であり、密かにそれでも深く恋愛を希望はするが現実的には積極的な異性に対してのアタックとならず、いわゆる「おくて」となって青春の彩がなくなってしまう人達である・・・。

そしてそれ故に恋愛にこだわり、自身の青春を華やかなものにしたいと、ことさら思い入れすることで、せっかくの見合い話を決断できずにずるずると日を過ごしてしまう・・・お見合いはするも見合いから直ちに恋愛に発展するような・・・出会いの最初から好きになって結婚に至ることを強く望むがあまりにますます遠のいてしまうといったパターンである。

もし易々と見合いから即恋愛に発展して結婚が決められるなら、その人は最初から恋愛を同じく易々と実行しているであろうし、そもそも恋愛は損得以前に発動する動物的な感性のようなものであり、それに比して見合いはお互いが損得を理性的に考えることを認め合ったところから出発する・・・いわば合理的な契約交渉に意味合いが近いのである。

ここを勘違いして見合いと恋愛を混同すると上記のように折角の見合いもなかなか決断が出来ず、結果として婚期を失してしまうのであり、この場合は進行形で付き合う好きな親しい相手がいないのであって、前者とは違って結婚をしないのではなく、むしろ出来ない状況にあるというべきケースであろう。

親として先ず考えなくてはならないことは、我が子の目の前に「決めるべき相手がいない」のであり、この場合は遠慮容赦なくどんどんと見合いの相手をあてがうことをためらってはならないのである。

すなわち相手がいないのであるから人工的にお相手を親が捜し、なかば強引にあてがっていくしか解決の糸口は見つからないと覚悟すべきなのである。

“そうはいっても好きになれる人が見つからないのだから仕方がない” などとのん気に考えるのは、それは他人の子供に対しての距離感のある対応の仕方であり、むしろ親の責任回避としか思えないのだが・・・。

親にも不退転の覚悟がいるということである。

無理に結婚をしなくてもいろんな生き方があってよいのではないのだろうか?・・・という考え方もあるが、皆が一様に経験することを自分は経験できないということは、結婚の結果いかんにかかわらずそのスタートの時点で、多くの人が得ているものを自分は得られないということでもあり、やはり一度は結婚もしてみるものだと思うのだが・・・。

運命学的に言えばそれがよき結婚生活となるか、波乱含みの危い結婚生活となるかは相性的に予測可能であるが、意外と恋愛力が淡白な者の方が落ち着いた結婚生活を送るケースが多いのも事実であり、逆に淡白さが良い意味で「淡々」と暮らせる能力に変化するのであろう。

だからこそ、恋愛のへたくそな者こそ、思い切って結婚をするべきであり、恋愛には不向きかもしれないが “結婚生活にはむしろ向いているのだ” と、自信を持ってよいのではなかろうか。

2003/09/13
2009/09/27 最終加筆

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 13 個性的に生きることの難しさ

昔から人を評するに「十人十色」といわれるが、人間一人一人にはそれぞれ個人差があり全く同じ性情・生き方の人間などというものは存在しないのかもしれない。

しかし別の見方をすればこの地球上に生存する60億余に上る人間同士の個体差が、他の生物から見た場合に果たしていか程のものであるかどうかは議論の分かれるところでもある。

個人の価値を重んじれば全てが異なった個体であると断じることも出来るが、また逆に他の生物から見れば全てがその差を論じるに値しないほど同一に近いとも言える。

そもそも個性的に生きるということは、他者と違う価値観をもってその生き方を実践することでもあり、その前提にはその他大勢の他者が存在して始めて成立する論理でもある。

即ちそこには自分が少数派に属することが、より際立つ個性となって光り輝いていくプロセスがある事を無視しては語れないということである。

面倒臭い前置きとなってしまったが、要するに個性的に生きるということは少数派を頑固に維持して貫き通すエネルギーが必要ということである。

これを逆説的に言い換えれば、個性があるだけでは個性的には生きられないということでもある。

人が多勢の群れから離れて一人己
(おのれ)を貫き、個性的に生きていく覚悟を持つと言うことは、それは格闘家が日々闘う自分の肉体を維持するために、血のにじむような鍛錬を怠れないことにも似る苛酷さがそこには伴うのである。

近年個性的に生きることが立派な行き方であって、その他大勢の生き方はまるで落伍者の生き方であるが如くに扱われ、そのために皆が直ぐにでも手に入れようと個性を追って血眼
(ちまなこ)になり、自分の生き甲斐を手軽に?・・・かつ必死で探す様をみるにつけ、本当に多数が多数派のままで早々簡単に個性的に生きられるのかと考えてしまう・・・。

若くして個性的に生きられる者は他者に秀でた・・・あるいはもっと確実な言い方をすれば「群を抜きん出た」格別の才能に恵まれた・・・、すごくラッキーでかつ「運」の強き者のみが享受できる「高嶺の花」であることを先ず肝に銘ずべきである。

そのうえで、それでは普通の者が個性的に生きられるということは一体どういうことなのかを改めて考えなくてはならない。

“凡庸な多数派は個性的には生きられないのか?”・・・?
“いやいや、そんなはずは無い”・・・のである。

しかしそれは「容易
(たやす)い道」ではないことだけは確かでもある。
凡庸な人間が個性的に生きるためにはそれなりの修練と努力が必要であり、その勤勉と努力の果てにこそ他者とは異なるところのいわゆる「個性」は身につくものであることを知るべきなのである。

とにかく日々個性的に頑張って他者との差を際立たせて生きていくことばかりが立派な生き方ではなく、淡々と一つの仕事を根気よく積み重ねたことが、結果としてゆるぎない個性となる生き方もまた立派といえるのである。

個性は焦らずじっくりと長い時間をかけて養うものでもあり、さすれば必ずやたとえささやかとは言え他者とは違う価値を持った自分自身に、自信を持てるほどの個性がそのとき備わっているものである。

“個性はじっくり養うことで誰にでも、確実に身に備わるものである!” という価値観を我々は絶対に忘れてはならない。

皆それぞれが、焦らずに、気長に、一生をかけてでも個性を磨こうではないか!・・・それならば凡庸な我々でも出来る気がする・・・。

一生をかけて根気よく磨いてこそひょっとしたら自分にとって一番の価値あるものと成るのかも知れない・・・たとえそれが世間に埋もれていたとしても、自分が歩んできた道そのものが個性となって昇華されていることのほうが一個の人間としてより大切のような気がするのだが・・・。

2004/01/20
2007/01/04 最終加筆

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 14 パラノイアと神の狭間
(はざま)

自身を「神」の生まれ変わり・・・あるいはその伝達者の如くに宣言する人達の存在を、マスコミ等報道機関を通じて時々耳にする機会がある・・・。

それは「予言者」であったり、「占い師」であったり、あるいはカルト集団の「教祖」であったりする場合が多く、いわば「神の啓示?」「天のお告げ?」に強く触発され、あるときを境にして、その者の人生は一変するのであろう・・・。

これをボクはタテ(垂直)の幻聴、あるいは幻覚と言い換えている。
もちろん当事者は幻聴などと思っていないことを一言付け加えておきますが・・・。
要は上から下、即ち天上から下界への意思の伝達の形式をとっているから便宜上そう定義したまでである。

幻聴には今ひとつヨコ(水平)の現象を伴なうものがある。
たとえば、壁の向こうで自分の悪口を言っている者が居る・・・通りを隔てたあの家の台所で私を陥れる相談をしている・・・このようなケースをボクはヨコの幻聴として便宜上そう区別している。

そしてヨコの幻聴は、多くは精神科医のカウンセリングが必要であると判断され、強度の者は医療的処置を施されるが、タテの幻聴は(真に神の啓示かもしれないが・・・??)皆の受け止め方は前者とは随分と違い、まるで神と一体であるかのように畏怖(いふ)され、特別の存在として・・・(期間の長短はあるが)皆から崇(あが)められる・・・。

そして、さらに付け加えるならばタテ、ヨコにかかわらずその者の発する言動は、厄介なことに時として10の内の幾つかは結構的を射ている場合もあるということである・・・ ただし、混沌とした無茶苦茶(フツーの人から見て)の場合の中でのクリーンヒットの確率でもあるが・・・これを神がかりと捉えるか?・・・はたまたパラノイア、すなわち精神障害の谷間で起こる妄想と理解すべきか・・・。

人間の脳ミソのどこが変わればそうなるのか?・・・興味のあるところだが・・・それは多分コンピューターの「CPU」の稼働率に似ているのかもしれない。

多くの方が使い始めた(ボクも1年半前から使いだした)PCだが、その機能の全貌からすれば日常的には10%にも満たないほどの「CPU」使用率でおおかたの用は足りるのではなかろうか?

ひょっとして人間の脳ミソも日常的には90%は眠ったまま一生を終えるはずなのが、何か「DNA」の変化なのか、あるいは突然変異の特殊体質なのかで、普段は使わないはずの脳ミソの回路が繋がってしまうのかもしれない。

しかし何がどうであれ、このような人を指導者として崇めるグループの人達は、フツーからどんどんかけ離れて行ってしまう “危険” に対する覚悟も併せて必要といえるであろう。

何故ならば、所詮人間社会はフツーの人が寄り集まったフツーの社会であり、そのフツーが例え真実ではないとしても、そこで生きているフツーの人にとってはそれが揺るぎのない現実、すなわち事実であるからである。

これを逆説的に言い換えるならば、たとえそれが絶対の真理であれ、あるいは真実であれ、皆が受け容れられない真理はまだまだ痩せている真実でしかあり得ず、この絶対の真理を理解しないフツーの人をただの「愚民」として切り捨てた真実は、その瞬間たとえそれが絶対の真理であっても、ただの独善の闇を彷徨(ほうこう)する「痩せた真理」でしかあり得ないのである。

他にも関連エッセーとして「7 人間は「神?」になれるのか?」及び「20 神と宇宙と」さらに「28 自我と帰依・・・そして信仰心」があり、あわせお読みいただければ幸いです。

2004/06/22
2009/10/06 最終加筆

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 15 心のカウンセリングを問う

カウンセリングについては色々な目的に応じたそれぞれの方法があるが、ここでは特に心の問題にしぼって考えてみよう。

心をカウンセリングすると言っても漠然としてつかみ所がないが、とりあえずこれをよりどころとする目的・価値観の違いから3つに分けてみたいと思う。

(1)は精神科医が施す心療、及び薬事療法を含めた医学的な手当て。
(2)は宗教的教えに導かれた「絶対帰依」により迷いを徹底的に排した厚い信仰による手当て。
(3)は運命的な自分の分限を知り、出処進退の撰吉と、無理のない自己再構築による手当て。

このうち(1)は精神医学、(2)と(3)は宗教と占いの問題であり、この3つはそれぞれが似て非なるものがある。

では似ているとはどういうことであろうか?

それは3つとも人それぞれが抱えているところの、現実の環境までも直ちに変えることは出来ないと言うことである・・・ 当たり前といえば当たり前のことだが・・・ すなわちいびつな環境は歪のままであり、不幸の現況が取り除かれたわけではないと言うことであって、簡単に自分の置かれた環境までリセットできないと言うことでもある。

(1)については医学的な処方の問題であり、医者でもないボクが軽々に口を挟むのは適当と思わないので、病気としての心の病はここではおくとして・・・。

(2)で言えば、「絶対の帰依」とは自分の信じるものに自分を棄てて一体化することであり、そのときすでに自分自身は「無」となって自我に固執しない・・・。

すなわち個人的な煩悩が抑えられる?・・・ あるいは自身の心の受け止め方が変ることで自分にとって今まで不幸であったことが試練の喜び?・・・ であったり、それは不幸を不幸として捉えなくなった内面からの・・・ いわば自己の価値観の変化が結果として存在すると言うことである。

これが(2)のもつところの最も効果的な「心のカウンセリング」と言うべきであろう。

ただこれにも表と裏があり、マイナスの危険も見逃してはならない。
それは「絶対の帰依」には常に「絶対」となる対象が存在しているのであり、この「絶対」は常に「唯一無二」の「絶対」であるからこそ「絶対帰依」に成り得るという教条主義的な純粋主義にたやすく結びつきやすい危険もはらんでいるということである。

宗教の「絶対の真理」の名の下に過去どれほど歴史が血塗られてきたかを思うとき、この「絶対」の重みと意味を深く問い続ける必要を人類は未だに払拭しきれないでいる。

近々の例をとっても宗教間の争い、民族間の争い、あるいはカルト宗教のトラブル等を見ても枚挙にいとまがなく、心のやすらぎを求める優しさがいつしか自らが加害者にとってかわってしまう恐ろしい現実も、我々がよく知るところのものであることを決して忘れてはならない。

特に活発な活動を繰り広げて信者獲得に熱心な新興宗教等では、これを熱烈支持する信者を巻き込んでのトラブルがマスコミを賑(にぎ)わすケースも多々見受けられるところで、「神」となかば同義語で信者の崇拝を集める教祖そのものの人格性を担保する手立てが見つからない以上、その教祖に100%帰依する信者は一転その教祖と共に地獄の底まで付き合わせられる覚悟もまた “いる” と言うことでもある。

信仰は自分にとって唯一無二の絶対であるからこそ自らを棄てて帰依できるのであり、その瞬間教えを護るためならば命を棄てても戦い護るとする、いわゆる「聖戦」の論理がたやすく正当化されてしまうドグマを背負うことにもなるのである。

しかしまた一方で、それぐらい熱情を持って信仰しなければ逞しい自我との葛藤を克服して自分もまた変ることが出来ないと言うジレンマが、「神」を熱烈に信じながらも「神」に近付けない・・・あるいは逆に「神」を熱烈に信じないが故にやはり「神」に近付くことが出来ない・・・有史以来綿々と続く愚かで悲しい人間という生き物の存在を考えずにはいられない。

(3)についていえば、社会的に生きている人間の、個別に降りかかる不公平、かつ不条理さをも含んだ結果としての幸・不幸の違い・・・すなわち個人差を運命という概念で解き明かし、そこから先ず己(おのれ)に課せられた分限を知り、苦境にあればそのトンネルの長さを知ることで出口の時期を察し、岐路に当たって選択肢があればより有利な撰吉に心がける・・・ささやかだがこれらを積み重ねることにより身の丈に応じた安寧の立場を築くというものである。

占いは摩訶不思議のものでは決してなく、むしろ現世の有利・不利をそのまま受け容れたリアリスティックな処世法を説くものであり、今日貧乏なものが明日たちまちにして金持ちにはなれないし・・・(もっとも宝くじのようなものに当たるということもナイとはいえないが)・・・、同じように今日つぶれそうな会社が明日は健全企業という訳にも行かないのである。

人生は何事も一朝にして成らないのであり、よって来るプロセスの積み重ねが現在の結果であるということはまぎれもない事実であり、この現事実の先にしかまた未来も存在しないということである。

だからこそ一つづつ有利な撰吉に心がけ、そのプロセスの結果として少しでも身丈に応じた・・・これが結構難しい・・・しかしそうすることで安寧の立場を築かんと欲する一つの手段として細々ながらも現在に引き継がれて来たのである。

ただし、この「運命」を語るべく、いわゆる占い師、あるいは霊能者等々も巷には溢れており、何が本物で何が偽物か?、はたまた誰が信用できて誰が信用できないのか?・・・その選別には玉石混交して(2)のケースと同じようにその人格性を担保することは容易でなく、結果、洗脳されて詐欺同然の被害に逢う者も実(まこと)に以って遺憾ながら少なくないようである。

このように現世の人間のしがらみの中で覆(おお)い被(かぶ)さる苦悩の多くは、そう簡単に呪文でも唱える如くに取り払えないのであり、故に自らの考え方、あるいは処し方を含めて自身の内なるものを変える「心のカウンセリング」に頼るしか適当な処方箋を人類は未だ持っていないと言うべきであろうが、これを癒す手立てについては自らの心まで相手に委ねて安寧を得んと欲することの危険性は常に心すべきとしか言いようがないのである・・・。

ここでこの問題を全然別の視点、すなわち「民主主義」という制度の在り様から「人間は何であろうか?」という基本にもどって考えてみたいのである。

民主主義とはそもそも多様な考え方を認め合ったところで、では「お互いどうすればよいのか?」を話し合い、議論しながら妥協していく制度ともいえる。

すなわち唯一無二の絶対の真理とは相容れないそこには雑多さがあり、立場、立場での真理や正義の主張を否定しない緩やかさがあってこそ始めて有効に機能する制度でもある。

いわば民主主義とは「神」が創りたもうた制度でもなければ、また「神」の “ご意思” に寄り添う形で作られたものでもない・・・いわば人間の知恵と経験で便宜上に設けた、ひょっとしたら単なる過度的な制度に過ぎないのかもしれない・・・。

しかしそれがたとえ「神?」なる者の絶対の真理や正義であっても、他を相容れない絶対の真理は、世界をその「神」なる者の絶対の真理で埋め尽くさずにはいられない・・・結果としての排他性を・・・自分の信じる真理が優位であればあるほど拭いきれないというドグマに陥ることになる。

そしてそのドグマは一つの真理に満たされた、結果としての画一的な、彼等の言うところの理想社会を世界に敷衍(ふえん)せずには置かないのであり、多様を「克服?」する過程のなかで否定的なものが抹殺されていく・・・それも絶対の真理を実践するという理想の名の下に・・・。

人間は苦悩と迷いの中でのたうちながら自分との妥協点を必死で模索し、ささやかな自己を少しづつ確立していくのであり、それこそが最も民主主義的な悩み方ではないのだろうか・・・?

人間は自分のなかの混沌を受け容れることで人間同士の混沌をも受け容れ、さらには社会の混沌さえも受け容れたところで民主主義を見たのであり、民主主義はいわば人間の知恵が作り上げた多様な人間同士の最大公約数のようなものである。

「絶対」が何をもってして絶対なのかが万人をもってして納得されない限り、この絶対の名の下に自らもいつしか加害者となる諸刃(もろは)の剣を未だコントロールできないままに組することを、むしろ躊躇(ちゅうちょ)することのほうが健全と私などは思ってしまうのだが・・・。

寿命が限られて空腹に怯える人間が悩み、苦しむのは当たり前であり、だからこそ先ずそうした自分を認め、かつ愛することが同類である他者にもその「愛」が及ぶのであって、そのためにも自己の分限を知ることは民主主義的安寧の第一歩と思うのだが・・・。

昔からよく言われるところの「分を知る」とはこのようなことではなかろうか?
最近ではついぞ聞かれなくなってしまった言葉のうちの一つだが・・・。

2004/11/11
2011/12/10 最終加筆

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 16 性善説?・・・ 性悪説?・・・?

よく言われることで、人は生まれたときは塵(ちり)・芥(あくた)にまみれる事もない純真・無垢な「善人」であるという「性善説」と、それとは逆の、人間は本然的に我儘な欲望を逞しくした生き物であり、これを常に懲らしめ、自己抑制し、コントロールしなければたちまちにして邪(よこしま)となってしまうとする「性悪説」がある。

「性善説」を唱える場合、いつも言われることが・・・生まれたばかりの純真・無垢な、まるで天使のようなこの赤子が「性悪説」の論拠の対象になる筈がない・・・と・・・。

なるほど、生まれたばかりの赤ちゃんが「生来は悪なのだ」と言い切るには、大いに無理があるというべきかも知れない。

しかし、ひるがえって考えて本当に赤ちゃんは「善」なるものと逆に言い切れるであろうか?
気に入らなければところかまわず何時でも泣きわめき、周りの都合などは一切お構いなしの傍若無人ぶりにはほとほと手をやいてしまう・・・可愛いから許せるが・・・ただこれを「善なる者」と単純に定義できるのだろうか?

生まれたばかりの無力なものが、本能的に自分の命を生き延びさせるために、最大限の我儘を押し通しているに過ぎないのではないのか・・・?

赤ちゃんは純真・無垢ではあるが、それはそのまま生きるための精一杯な我儘の極致でもあり、当たり前のことではあるが完璧に自分のことだけしか考えていない立場の者といえる。

親の保護無くしては生きていけない幼子であればこそ最大限の我儘も許せるが、これが大人であればまったく自分勝手な我儘極まりない無礼者であり、到底許すことは出来ないであろう。

本来人間は「性善」なのか?・・・はたまた「性悪」?なのか・・・?
思うに、もともと人間を元のところから「善・悪」に分けて定義しようとするから論理に無理が生じるのではなかろうか。

そもそも命あるものは何であれ自分が生き延びることには本能的に我儘であり、人もまたしかりで、その際たるものとして赤ちゃんが一番自然に近い存在と考えれば「善・悪」とは別に理解できるのである。

同じ生きものとして生まれた人間が、自然のままから社会性を持った訓練された人間に変貌することで、始めて一人前の社会的な共通の背景を持った大人としての人間へと成長するのであって、いわばこの成長の未熟な者が・・・もっとストレートに言えば、赤ちゃんの我儘からあまり進歩しない者が・・・社会での適応性を結果として失っていくのである。

そもそも「善・悪」は「社会」という共通の基盤があって成り立つ概念でもあり、社会性を持った生物にのみ認識されるいわば高等な思考である。

そしてその「善・悪」が社会性の熟練度を最も大きな因として発現するとするならば、いわゆる「性善説」「性悪説」なる本然的な人間の分け方は、論理として的を射ていないのかもしれない。

何故ならば、社会性の熟練度・・・言い換えれば修得度の結果として「善・悪」の評価が分かれていくとするならば、人間は元「善」でも、また元「悪」でもなく、社会性に対する適応力の巧拙が最も問われているわけであって、元なんであるかを論じることすら無意味となる・・・。

しかしこの論をもってすれば「悪」は「修得度」の不足によって生じることとなり、したがって誰もがよく修得すれば全て「善」に化すことが出来るということにもなる。

即ち、逆説的に誰もが「修得」により「善」となるわけであるから人間は元々「性善」なる存在であり、故にどのような凶悪犯であっても修得により善に立ち返る余地が有る限り、やはり「性善説」で良いのだという結果証明ともなってしまうのである。

だが、だからといって人間に「悪意」が無ければ、それが即「善意」と言い切れるであろうか?
人間は生きるための大いなる我儘から始まって、多くを学ぶことで人間同士の社会性を修得していくのであって、まさにこの同じ時空の平面上でのプロセスにおいて善意が育ち、また同時に悪意も育まれていくと言うべきであろう。

ただし、運命学的に考察すれば、この社会性に対する適応力が生まれながらに柔軟に対応できる者と、そうでない者が存在するのであり、柔軟な者は格別に躾けなくても自然と自己学習して修得出来るのだが、そうでない者はなかなか自己学習がうまくいかず、したがって幼き頃の躾(しつけ)の有無が大人になって大きく影響されるとするのです。

考えるに社会性は訓練され、継承されて修得するものであるが、その修得する受け容れ側の個々人に柔剛・遅速が元々の性情や体質のなかにあって、ここに画一化した教導から漏れる者が生じるのです。

また教導され、訓練され、ある種修養の中で会得される社会性は、同じ修得のプロセスの中で常に変化する状況に我が身自身の損得が複雑に絡み合い、心身共にまるで木の葉のように揺れているのである。

即ち社会のなかでの個人の環境は吉凶・善悪絶えず変化しているのであって・・・だからこそ逆に常に訓練し、教導し、懲らしめる必要性が・・・「社会的な人間」を維持していくために欠かせないとする考え方が、すなわち「性悪説」の論拠につながるのであろう。

そして多くの人間が自分に課せられた環境の吉凶の変化に絶えず揺れるとする限り、邪悪な誘惑の魔の手に、我が身が常にさらされていると言う現実の、厳しい結果を軽視できないのもまた事実である。

人間は揺れる現実のなかで、“常に戒め、戒め自らを確認することで始めて社会性が維持されるのだ”という現実に立てば、「性善説」の立場に立つよりは、むしろ「性悪説」の立場を選ぶ方が、より社会的な「揺れる人間」として自戒を込めた責任ある選択ではないのかと思うのだが・・・。

そのとき始めて躾けの大切さ、マナーの大切さ、継承を継続させる力の大切さ、そしてこれらを自己学習するにあたって個人差があるということの認識も含め、社会的なる人間はその自らが創った社会というルールの中でしか生きられない現実を改めて真摯(し)に考え、その社会の中での自らの立ち位置をコントロールするしかない・・・と、思うのである・・・。

2004/11/16
2009/09/26 最終加筆

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 17 人心を拘束する(パワー)

人間がこの地球上で群れをなして暮らす限り、その群れの中で仲間同士のし烈な戦いをくぐり抜け、自らの優位性と生き残りをかけて我が意に従う者達の人心を束ね、そしてこれをさらなる武器として新たなステージへの力の行使とすることでより自分が欲するところの有利な社会システム、すなわち権力としての政治を実現するためのパワーとしてきたことは “競争する人間” としていわば当然の帰結ともいえる。

このとき、より広い意味では人類全体の・・・狭い範囲では立場、立場でのグループの中における人心を直接有利に掌握する手段として、その政治的意味合いの大きさは今日に至るまで人間の歴史のなかで綿々と引き継がれている「群れる人間」を束ねるために必要な “力” の行使として、自らの実存にも直結するパワーゲームであったともいえよう。

何故ならば、この群れの中で一人でも多くの人心を掌握することが、即ちその群れの長(おさ)として君臨することが出来るのであり、それこそが集約する力のピラミッドの頂点に自分が立つということに他ならないからである。

人間といえども弱肉強食の論理の範疇(はんちゅう)のなかで生き続ける他の動・植物となんら変りは無く、自らが最も有利に生き延びるためには最大限の配慮と英知と死力を尽くすのであり、人心の掌握もまさにこの延長線上で繰り広げられる古典的な生存競争に端を発した「権力闘争」といえるのである。

それでは人の心を強い拘束力で掌握する手段とはどのようなものであろうか?
それは
  1 宗教
  2 思想
  3 暴力
  4 財力
  5 権威
おおよそこれら5つ位が「心を拘束する力」として考えることが出来ようか。

このうち宗教・思想・暴力の3つは強いマインドコントロールが伴なうもので、これを主宰する者、あるいは主宰する者を通してイメージされた広い意味での理想の形である「神」、もしくは「イデー」に対する厚い「実現信仰」をベースとしての・・・指導者と共通の観念で強く結ばれた一つの意思を持った集団を形成していくのである。

これらはいわば「心の束縛」であり、しかも信仰という「心の高揚」を介して選良化されることで、束縛は「選ばれし者」の証となり、誇りともなって「教え」のためならば「死」をも恐れぬ「信念」に先鋭化され、自分たちは信じる主宰者、または教祖、さらには「神」に選ばれた選良民、あるいは同志なのだ ・・・といった自覚のもとに強力な団結力が働き、まるで火の玉のような行動力がその主宰者によって掌握されることとなる。
結束力としては一番強い形といえよう・・・。

さらには理想とは正反対の日常的に襲いかかる受け容れ難い「暴力の恐怖」によっても、信仰とはまた別の意味で独裁者との一体感が強力に・・・というよりは・・・なかば強引に形成される。

即ち、日常的な暴力は生殺与奪権を奪われることで絶対の服従を余儀なくし、いわば「恐怖政治」が成立するための古典的な常套(とう)手段でもある。
暴力は人の尊厳を徹底的に打ちのめす最も有効で、かつ人心を掌握するうえで前者に次ぐ力となり得る。

これに比べれば財力と権威の2つは主宰者との一体感を必要としない「拘束力」であり、容易に「面従腹背」の関係が双方で認知されており、社会的な共通の価値観の基盤の上において始めて有効に機能する、なかば取引・・・即ちギブ・アンド・テークのようなもので、全人格をも支配する強力な拘束力を発揮すると言う訳にはいかないのである。

ただ、財力も権力も大きさに比例して影響力もまた加重されるのであり、それがたとえ「面従腹背」であったとしても拘束力はより強まり、相手を牽制、支配する大きな力となり得ることを、「自由・平等」の現代においてさえ誰も否定できない。

さらに言えば、これら財力や権力を行使して裏から別の圧力団体を使い、暴力的に “脅す” という方法も古来より自分にとってより有利な人間関係を構築する有効な手段として現代に至るまで行使され続けている。

人間社会の中で人間が自分以外の人間を少しでも有利に掌握・支配せんと欲するは、古今東西どこにあってもその運動原理は同じで、国際会議における公開の議場での公平・平等の話し合いですら議案をまとめるために非公開の密室会議はあたりまえで、国と国とがお互いスパイを使って相手の弱みやスキャンダルを密かに収集してこれを自国の有利に利用するのも今も昔も変わらないのであり、いわんや個人の有利・不利においてはなお更であるとしか言いようがないのである。

しかし、それでも強いマインドコントロールで画一的に単調な正義を叫ばれ、押し付けられるよりは、たとえそれが卑劣な圧力であったとしても、あるいはしたたかな「面従腹背」であったとしても、結果的にギブ・アンド・テークのような拘束力の方が、曖昧で無節操かもしれないがより民主的な拘束のあり方とボクなどは思ってしまうのだが・・・。

2004/12/03
2011/12/13 最終加筆

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 18 王者(勝者)・・・の振る舞い

自由・平等を保障した近代民主主義社会といえども、自由競争への参加の自由と平等性はおおかた確保されてはいるが、競争の結果で生じる不平等を否定はしていない。

即ち、スタートラインには横一列に出来得る限り平等に並ぶことは出来るが、ゴールで生じる順位の等級は互いに一生懸命走った結果であり、これは努力報酬であって差別とは定義しないのである。
故にピラミッド社会はその競争の過程で生じる当然の帰結として、ことの良し悪しを別に毎日のように少数の「勝ち組」と多数の「負け組」を輩出することになる・・・。

人生の勝ち負けを軽々しく論ずることに異論もあろうが、とりあえず「勝ち組」の簡単な条件を運命学研究の立場から独断と偏見で定義してみたい。

あまり難しく考えずここでは会社員・自営・会社経営者を問わず、3つの条件をクリアラインとして考え、これがクリアできていれば自分は果報者のいわゆる「成功者」と思い、今回のテーマであるその「振る舞い」に意を払う対象の者と考えてほしいのです。

その3つの条件とは
  1 自ら稼いだ金、あるいは信用で普通の予算より3倍以上の資本をかけた住居を構えられる。
  2 同じく自ら稼いだ金で高級国産車あるいは外車を2、3台は乗り回すことが出来る。
  3 大会社の部長以上の役職と同程度の権限を手中に収めることが出来た。

ちょっとヤボな定義の仕方だが・・・わかり易く・・・このうち2つの条件を満たすことが可能となるぐらいの生活力と権限が幸い備わっているとすればあなたは今回のテーマの該当者でもある。

およそ運命学的に選別・判断したとしても、成功者たり得る者は全体の1割にも満たないほど少数であり、極わずかに、しかし確実に存在し続ける「選ばれし者」なのである。

「負け組」が半数いるからといって「勝ち組」も同じく半数存在するというものではなく、何事もそうであるがピラミッドは土台に近づくにしたがって体積は大きくなるのであり、社会の仕組みとは元々そうしたもので、人事の事もまた然りなのである。

即ち、ピラミッドの頂点に近づけば近づくほど周りに競争相手は少なくなり、同時に仲間も少なくなって孤独となるは理の当然であり、それだけ自分が高見に登ったということでもある。

何も無き者が「勝ち組」に名を連ねるということ自体、そうたやすい事ではない。
先ず「運」が味方することが第一とは言うものの、人知れず努力を積み重ね、喧嘩を勝ち抜いて我儘も通し、下げなくてもよい頭も下げて必死の思いで築かれたものであり、まさにその者にとっては血と汗と涙の結晶と言うべきものでもある。

故に成功したからといって皆に優しい人間になる必要はない・・・誰もが欲しがるところの「富と権力」を人並み以上にかき集めるに、優しい集め方では到底集めきれないし、また維持することすらもできないであろうこと位は貧乏人のボクでさえ容易に推察できる。

しかし逆に考えれば、誰もが欲しがる「富と権力」を自分は手中に収め、かつ自由に使う立場に立ったのであるから、その富や権力を集め得ることが出来た勝者として、あるいは大いなる結果を手にした果報者としての最低の責任は常に果たすべきなのである。

これは「博愛」でも、また「施し」でもなく、むしろ「責任」と思うべきであり、その獲得した「大いなる富と権力」に見合う「大いなる責任」が果たされてこそ始めて、自分と社会の中で我儘と責任が見合う形で同立し、勝者の我儘が敗者に受け容れられるのである。

責任を全うしない我儘はただの守銭奴であり、無頼の徒でもあり、たとえ成功したといえども敗者から見れば受け容れ難きチンピラに過ぎないのであり、敗者に護られない勝者は、社会が敗者の海で成り立っている以上、結局真の勝者たり得ないということも知らなくてはならない。

たとえ勝者といえどもそれに倍々する敗者の屍(しかばね)の養分を摂取することでのみ咲くことの出来る大輪の花であることを忘れてはならないのであり、ことさら敗者におもねる必要はないが勝者の立場を敗者に納得させる必要があり、そのとき始めて非力な敗者が挙(こぞ)って勝者を担(かつ)ぐのであって、だからこそ我儘でよいから勝者は毅然とした責任の果たし方が大事なのである。

王者は自分の贅沢の分だけ責任を果たすからこそ王者たり得るのであって、贅沢はするが責任を果たさないのはただのチンピラであり、贅沢もせず責任も果たさないとなれば、たとえおごり少なきと言えどもやはり王者たり得ず、これを守銭奴という他なし。

ちょうどシャンパングラスをピラミッドのように積み上げ、その一番上からシャンパンがグラスを満たしていく形で下へ下へと流れ落ちるような自然な「恩恵」のあり方を人事に照らして考えてみた場合、人によって多少の順逆はあったとして・・・自分を中心にその成功の恩恵であるべきシャンパンシャワーはどのように流れ、降(ふ)り注(そそ)いでいくのであろうか?

先ず子供があれば最初は子供であろう、そして次は配偶者に、その次には自分の両親であろうか、そして次が自分の兄弟姉妹、そのあと多分配偶者の両親、次にその兄弟姉妹、さらに自分を支える親しい友人、仕事仲間へとつながって行くのが縁の深さを考えればある意味自然の流れと言えようか・・・。

これらは順番に多少の入れ替わりがあったとしても詰まるところは自分の立場から一番大切な、あるいは大事にしなければならない自然な気持ちの順位とも言え、いわば恵まれし者の人間の情理として最低果たすべき “幸せのおすそ分け” であり、この流れが一部欠落したり、齟齬(そご)が生じるようであればどこかに重大?な情理の上での手抜かり、あるいは性格上の欠陥があると思うべきで、その手抜かりはやがて自分の足元をすくうことにもなりかねない因ともなるのです。

大いなるパワーを幸いにも?、あるいはそれが必死の思いで得た者であったとしても、それに見合った大いなる責任も同時に背負ってこそ自分が踏みにじって来た屍(しかばね)の数を問われないのである。

たとえ成功したからといってもことさら皆に優しく気前のよい人間である必要はないが、自分が他人よりも余分に成果を収めた分だけ社会に対しても、あるいは人間関係に対しても責任を果たすことが必要であり、それが人の上に立つ者の精一杯の務めと思うべきなのだ。

そもそも王者とはそうしたものであり、ただのチンピラであっても、あるいは守銭奴と揶揄(やゆ)されようとも “何の痛痒(つうよう)もない”・・・と言うのならば、それもまた自分自身が選んだ “一つの人生” であり、何をか況(いわん)やではあるが・・・。

2004/12/05
2009/10/09 最終加筆

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 19 若者の進路選択

いつの世にあっても人格を形成する上での教養は大切であり、この意一つをとっても親が可愛い子供に勉学を奨め、より高い教養を身につけて欲しいと願う気持ちは、むしろ自然というべきかも知れない。

しかし昨今、これが高じて皆が先を争って進学するに及び、より有利に、より綺麗に、より楽に人生をするための「勝ち抜く手段」としての教養に気持ちが傾き過ぎてしまったとも言える。

皆がより有利に、より綺麗に、より楽な仕事に就くことをひたすら目指し、そしてそれを成功神話として信じるがあまりに、逆に若者の進路選択はかえって狭まってしまった思いが強い。

あたかも有利で、綺麗で、楽な仕事以外はまるで落伍者が仕方なくするが如きの風潮が高まり、そのために技術修得に時間のかかる現場作業の仕事に優秀な人材が集まらなくなってしまった。

機械工、仕上げ工、大工、左官等々、いわゆる職人といわれた職種の社会的評価の低さが起因と思われるが、こうした社会風潮が結果的に職業選択の道を細くし、若者からプライドを持って選べる自由な選択肢を奪っているとするならば、これを深刻に受け止める必要が大人の側にありはしないだろうか?・・・。

高学歴社会は、低学歴社会?よりはそれだけ皆が恵まれていることの証でもあり、それはそれで意義のある社会現象なのかも知れないが、しかし誰もが勉強好きではないし、むしろ勉強嫌いの者にとっては大学卒業までの長い勉学生活は、日々苦手な事を強いられる苦痛の時間の連続ともいえるのである。

大学を卒業して、イイ会社?に入り、エリートコースを歩むことは選ばれし者の証明であって、むしろ選ばれることは名誉でもある。

しかしここで考えなくてはいけないのは、いつの世であれ選ばれしエリートは常に少数であるということである・・・おそらくこの「強運」グループに入れる者は全体の10〜20%位でしかあり得ず、残りの80〜90%の人は期待通りの成果をその手中に収めることが出来ないのであり、これが偽りのない現実でもあります。

可愛い我が子が、あるいは自分自身が、いうところのエリートからこぼれ落ちる確率のほうが遥かに高いということであり、これをもっとストレートな言い方をすれば、大半の者が落伍者としての自分自身を意識し、プライドを傷つけられ、密(ひそ)やかに劣等感をも抱くに至るとするなら・・・。

そしてその屈辱の中でひたすら笑顔をつくってエリートに媚を売るか、あるいは僅かに残ったプライドを維持するために逆にそのプライドの感情を遮断して自己の中に閉じこもり、傷ついてもう飛べなくなった羽根を癒すが如くの自慰生活を余儀なくすることになるとするなら・・・。

これはもう悲劇というしかなく、大人達がよかれと思って一生懸命作り上げた成功神話が、逆に画一化されたエリート養成所の単純な競争の中で、ただひたすら大量の惨めな「負け犬」を作り出しているとするならば、まさに滑稽を通りこした皮肉で悲しい結果としか言いようがないのである。

たとえ職種といえども需要と供給の関係にあり、人気によって差異が生じるのはなかば仕方の無い事なのかも知れないが、しかし若者に出来るだけ貴賎のない幅広い職業選択を維持・提供することは、社会そのものが負うところの大切な使命であり、また重い責任でもあると思うのです。

大工さんを希望する人、左官さんを望む人、あるいは工員さん、職人さんを選ぶ人が、プライドを持って積極的に進路選択できる社会的な仕組みが必要であり、言い換えれば優秀な工員さんであればそれがたとえ中卒であっても、ヘタな大卒より社会的に評価されることが納得されれば、勉強は嫌いだが機転が利いて器用な優秀な子が親の格別の反対もなく、誇りを持って価値ある人生として選択できるのである。

それでは「社会的な後押し」とはいったいどんな事であろうか?
それはボクがかねがね思っていた事であるが、例年、国家功労の意味でとりおこなわれている「叙勲」である。

この毎年おこなわれる叙勲者の顔ぶれを見るにつけ、政治家、財界人、大?教育者、大芸術家のなんと多いことか・・・これらはある意味で当たり前のことかもしれないが、いわゆる特別な「成功者」をさらに称(たた)えるためのセレモニーの感が強いといえる。

現世で功成り、名を遂げた者は、さらに名誉を讃えるまでもなくすでに大いに報われてもいるのであり、むしろ死んだ後にその功績を追悼するという形で叙勲し、必要ならばその遺族に一時金を支給するということでも充分に報いることは出来るのではないかと思うのです。

むしろその分下積みで社会を支えてきた名もない者達を積極的に叙勲の対象とし、下積みの者の名誉を国が保障することで社会的な尊敬を誘導すると同時に、老後恩給のような形で自分の年金に上乗せされるとしたらどうであろうか?

こうして学歴もなく、たいして出世を果たさなくても、一生懸命に自分の立場なりに社会貢献に尽力すれば報われる社会的な仕組みを確立することで、誰もがより自由にプライドを持って本当に自分が希望する進路選択が可能になり、これにより少しでも学歴偏重の弊害を取り除くことが出来るとすれば、それこそ一石二鳥と思うのだが・・・。

2005/03/27
2005/04/13 最終加筆

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 20 神と宇宙と

宇宙という概念はあまりにも漠然とし過ぎて計りようがないが、現在言われるところでは光の速さでおよそ130億とも、あるいは150億光年前までもの銀河を確認できるという・・・。

このように我々人類は気が遠くなるような広大なエリアを「宇宙」として認識しているのであるが、この定義ですら現在の科学で人間が予測し得る一つの事実でしかないともいえる。

たとえば以前、某テレビ局で放映されたと記憶している・・・多分「地球大自然」と思われるが・・・その中で「象の糞」の中にのみ生息する微生物の紹介があったような気がする。

その微生物にとってのいわゆる「宇宙」は「象の糞」の中でのエリアが全てであり、さらにその外に広大なエリアが存在していることなど知るよしもないのである。

ここでフト考えるのは、我々人類が認識するところの「宇宙」といえども、ひょっとして人間を逆に微生物の立場に追いやってしまうほどの・・・たとえば地球が誕生して40億年の経過を経るといわれているが、この人類にとって途方もなく永い時間を、ほんの一瞬の瞬(まばた)きか、あるいはアクビほどの時間軸でとらえている「何か?」がもしある?いや居るとしたら、これはもう人間が持つ時間と空間を遙かに超越した「神」なる者の領域なのかもしれない。

その「神」なる者は、銀河をまるで「箱庭」の如くに眺め、あるいは宇宙全体をあたかも「象の糞」の小ささで意識していたら・・・。

宇宙はもともとビッグバンという大爆発から始まって外へ外へと未だに広がっているという・・・それはまるで夜空に打ち上げられた大きな打ち上げ花火?のように、破裂した火薬が放射状に飛び散って中心から遠ざかっていく状態に似ているような気がする。

人間にとってビッグバンは130億年、150億年をかけた壮大な時間軸の中での出来事だが、この気の遠くなるような長編ドラマを、あたかも花火でも見ているかのようにほんの数秒の出来事として捉えているものの存在がもしあるとしたら・・・。

我々が知る宇宙をまるで数秒の打ち上げ花火を見るかのように時間を消費し、そして我が宇宙を「象の糞」の如くに包み込んでしまうほど、さらに広大なエリアを持つ「大?大宇宙」にもし遊ぶ者がいたとすれば、そして人間の寿命などは、その者にとってホンの瞬きの瞬間ほどにもならない一瞬の出来事としたら・・・。

それこそがまさに我々人類を超越した「神なる者?」と言える存在なのかもしれない。

ただし、未だその広大なエリアを覗いた人間は1人もいないと思うが・・・??

いやいや、ひょっとしたら “ワレはそのエリアから愚かな人間を導くために使わされた『神と一体なる者』なのだ!” と、わめく・・・いや失礼・・・お言葉をたれる・・・者の存在がいくつもあった?のやも?知れない。
ボクの記憶ではあまり定かではないが・・・。

関連エッセーとして「7 人間は「神?」になれるのか?」、また「14 パラノイアと神の狭間で」、さらに「28 自我と帰依・・・そして信仰心」もあわせてお読みいただければ幸いです。

2005/04/01
2009/05/03 最終加筆

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