トップ・バー

(注) PCをご利用の方で左端に13個のページ切替ボタン列が表示されない場合は ここ 「ホームに」をクリック ボタン列が現れます   最初のスタートページに戻る場合は以下の文字列 スタート トップに」を クリック 戻れます

見出しトップタイトル ≪龍得水の人生をエッセー≫

人生をエッセイ  その 1



序   文

 「運命」・・・その偶然と必然

人生とは、いわば偶然の積み重ねのようなものであり、現代の進歩、発達した文明の力をもってしても、人生上に起こるさまざまの偶然を科学的に、かつ合理性をもって解明・立証することは未だ至難の業と言わざるを得ない。

人間という一個の生命体が始めて経験する偶然が誕生の瞬間にあり、それはまた同時に一つの最初の必然ともなってその人の一生に大きな関わりを持つ前提となるのである。

祖先の積み重ねた偶然が新たなる生命体の誕生という一つの必然となり、それから数え切れないほどの偶然を積み重ねて現在の必然が存在するのであり、偶然が一つの必然を生み、その必然がまた多くの偶然の前提となる・・・この連続した流れが「命の運(めぐ)り」であり、すなわち「運命」なるものの運動原理といえよう。

現時点における環境や境遇は一つの必然であるが、これも過去にさかのぼれば必ずその因って成すところの幾つかの偶然に突き当たるものであり、この「原因」と「結果」を別の言葉に置き換えれば「因果・応報」と言うことが出来る。

そしてこの「因」と「果」は偶然と必然でもあり、私達は過去いかに多くの偶然、すなわち運命に遭遇し、ある者はこれを身に余るような必然として謳歌し、またある者は不本意なる必然を受け容れ、これを余儀なく許して来たことであろうか。

「偶然」・・・・・この言葉には無限の広がりと壮大なロマンが秘められている。
たとえそれが苛酷で冷厳な一つの必然を前提としたものであっても、この偶然の機微を適確にとらえて選択することが、限りある必然から無限の可能性へと挑戦する第一歩ともなるのである・・・。

現在ただいまの偶然は単なる偶然ではなく、あるいは一生を左右するかもしれない運命としての重みを持つ、ささやかだが大きな偶然でもあるのです。

今日のこの偶然が明日のよき必然であることを心より祈ります。

<後書き>
本序文は1970年代の半ば頃より、龍得水が自らの鑑定書の巻頭を飾る始めの言葉として掲げたものを引用したもので、未だ龍得水が新進気鋭の? 若きとき(30才台前半の頃か)より現在に至るまで40年近くに亘って使用し続けているものを、改めて本エッセイの序文として再掲載させていただきました。
龍得水



運命的な立場から綴った
龍得水の 人生をエッセイ
総合 目 次 ≫
龍得水「姓名判断」編
トップ ページ に戻る
ページ移動ボタン 龍得水「姓名判断」編 “運命の神秘” トップページへ


人生をエッセイ その 1

 序 文
 1 占いは奇跡?・・・か・・・?
占いはまさにこのリアリティーの中にこそ存在し得るもので、いたずらに奇跡を期待・・・
 2 福運の大きさと幸福のバランス
このパイの大小はそのまま人間の「運」の大小を語ることに置き換えることが出来る・・・
 3 個性化と差別化
差別は富の配分の自由を保証する限り、競争社会の中で他者との差別化として半ば肯定され・・・
 4 努力と開運はイコールか・・・?
誰もが額に汗して刻苦精励すれば成功するとは限らず、結果として無理がたたって・・・
 5 自立と依存のはざまで
この「心の闇」は自分をいつまでも甘やかして自立の旅立ちを殺(そ)いでいる親への密やかな恨みとなり・・・
 6 強くて優しい人?は何処(いずこ)に・・・?
優しさの裏には自嘲的とも言える屈辱が存在し、強さの中には喧嘩に訴えてでも自分の意見を通す・・・
 7 人間は「神?」になれるのか?
この三つの基本的要素が満たされたとき、始めて人間は大いに「神」に近づくことが可能であり・・・
 8 友達が少ないと悩むあなたに
もともと友達が少ないと悩む方の共通した行動原理にマイペース性が上げられる・・・
 9 文化人としての「建前」と「本音」
建前を語り、建前を守ることは、教養や品性や、人間としての高い熟練度さえも要求されるのであり・・・
10 子供部屋の個室化とコミュニケーション
子供は子供部屋に入ることで煩わしいすべての人間関係から開放され・・・安心感に浸る・・・
人生をエッセイ その 2
11 心優しき戦士達へ
人生には直接的な生き方と間接的な生き方があり、この最初のボタンを掛け違えてしまうと・・・
12 親から見た子供の結婚運
恋愛力は動物としての人間が等しく持つところの基本的な本性ではあるが・・・一人ひとり濃淡があり・・・
13 個性的に生きることの難しさ
個性的に生きるということは少数派を頑固に維持して貫き通すエネルギーが必要・・・
14 パラノイアと神の狭間(はざま)
人間の脳ミソのどこが変わればそうなるのか?・・・突然変異なのか興味のあるところだが・・・
15 心のカウンセリングを問う
いびつな環境は歪のままであり・・・簡単に自分の置かれた環境までリセットできないのであり・・・
16 性善説?・・・ 性悪説?・・・?
人間は生きるための大いなる我儘から始まって、多くを学ぶことで人間同士の社会性を修得することで・・・
17 人心を拘束する(パワー)
人心を掌握することが、即ち・・・集約する力のピラミッドの頂点に自分が立つことが出来る・・・
18 王者(勝者)・・・の振る舞い
敗者から見れば受け容れ難きチンピラに過ぎない・・・敗者に護られない勝者は勝者たり得ない・・・
19 若者の進路選択
大人達がよかれと思って作り上げた成功神話が・・・大量の惨めな「負け犬」を作り出している・・・
20 神と宇宙と
その「神」なる者は、銀河をまるで「箱庭」の如くに眺め、あるいは宇宙全体をあたかも「象の糞」の・・・
人生をエッセイ その 3
21 家庭の中での序列の是非を問う
自身の「分限」を知る・・・互いが序列に従うことで無用の争いを・・・自他共に傷付く事を回避・・・
22 衣食足って礼節を知る?・・・忘る?!
駆り立てられるようにより豊かさを希求し続けるその果てに、計らずも浅ましい自分に再会・・・
23 いじめ・・・差別・・・優越感
悪がきは必ずクラスに5、6人はいたが、しかしそれを諌める者もいたし、被害者に寄り添う者もいた・・・
24 育てよう! 民主主義と交替政権
官僚同士、官僚と政治家同士、さらには政治家同士の馴れ合いが生じ・・・談合、腐敗の温床となる・・・
25 「運命」とは?・・・その定義
この不条理で、しかし気ままで神秘的でもある偶然との遭遇こそ「運命」そのものと言えるが・・・
26 占い師の分限・・・?
人を幸福に導くことはなかなか難しいが、逆に不幸はちょっとした後押しで容易(たやす)く誘導されて・・・
27 自由故の拘束感?・・ 豊穣故の飢餓感・・?
自由は何でも自分の思い通りに「成る」と一瞬錯覚・・・しかし生命力の維持は原則的に「強い者勝ち」で淘汰され・・・
28 自我と帰依・・そして信仰心
「人間は神のように生きられない!」・・・この瞬間、人間は「自我」と「神」とのギャップを正当化し、自らの悪意と罪をも・・・
29 運命と個人の分限・・・成功の黄金比率とは
見えない分限のようなものが、人間一人一人をある意味「能力区分する自然の力」として働いているとしか言いようがない・・・
30 政権交替は民主国家たる証明
経験は与えなければ何時まで経っても未経験のまま・・・これでは政権交代そのものが「百年河清を待つ」に等しい・・・
人生をエッセイ その 4
31 多様性の共有
各人が各様に主張する正義を、自らが主張する正義だけが絶対正義だと過信しない・・・正義は結構ランダムでもある・・・
32 「正義」のすすめ
我田引水的な都合のよい「正義」が雨後のタケノコのように林立し・・・正義が都合よく使い回されている・・・
33 それでも「政権交替」は必要
ピラミッド社会のなかで繰り広げられる権力闘争を「悪」として断罪してしまうことが人間社会の現事実に沿った判断といえるか?・・・
34 先祖供養とお墓の話
「天国・地獄」の発想は「六道」思想から・・・「地獄界」〜「餓鬼」〜「畜生」〜「修羅」〜「人間」〜「天上界」の六つの道があるとし・・・


龍得水の「人生をエッセー」は、これからも折に触れて随時追加していきます。
このエッセイ集が少しでも参考になれば望外の喜びであります。




 1 占いは奇跡?・・・か・・・?

今ある現在は突然として存在するのではなく、序文にも記すとおり、数え切れないほどの現実、すなわち偶然と必然を積み重ねて始めて今を存在し得る。

一見奇跡と思われることも、必ずそこに由って至る現実を積み重ねているものであり、人が当たり前に「生きて・・・死ぬ」ということは一個の生命体にとっては恐ろしくシビアで、かつリアリティーのある現事実そのものといえる。

人間がこの現事実の中で生息し、自分の人生を現実的に築き上げている限り、その人間の生き様を占う「占い」だけが、ただいたずらに奇跡を標榜するとなれば、それはあまりにも現実にそぐわないといわざるを得ない。

占いはまさにこのリアリティーの中にこそ存在し得るもので、やすやすと奇跡を期待するがごときの占いはその時点ですでに信じるに値しないほどリアリティーを失っているのである。

まさに「占い」こそが現実そのものであって、あるいはそうでなくてはならず、ただいたずらに奇説、妄説を唱え、それがまるで「神」のお告げでもあるかのごとき占いは、ドラマチックではあっても現実とあまりに乖離
(かいり)するようであれば、その瞬間、信ずるに足らないほど非現実と思うべきではなかろうか。

人生の軌跡はある意味台風の進路予想に似たところがある・・・。
南の海で発生した台風が日本に上陸するまでにはそれなりのプロセスがあり、南の海で発生したものがいきなり時間と空間を飛び越えて日本海に存在することはないのであって、それなりの時間経過と、順序をもって近づいて来るのである。

それが迷走台風においてさえ迷走する理由があるのであり、「運命の軌跡」もまた同じで、今ある自分はいきなりそこに存在している訳ではなく、そこに至るまでの人生を経てまさに存在しているのであって、今ある冷厳な現実の先に自分の将来もまた存在するは理の当然なのです。

ただし、その将来は現在を基点としながらもまだ見ぬ未来の可能性に幅があるのであり、この幅こそまさに「占い」の範囲であって、これを予測する予報士?(占い師)の独壇場、すなわち腕の見せ所なのである。

しかし、その現実に立脚した「運命」を占う「占い」だけが、いたずらに夢物語を唱えたり、あるいはあたかも奇跡が易々と実現するが如きの期待を必要以上に抱かせるような占いであるとするならば・・・それは結果的に現実からかけ離れていくばかりであって、ことさらに占いがフィクションの妄想の世界への架け橋的な意味合いを強くする弊害を生み、本来現実に立脚すべき占いをファンタジーの彼方へと追いやってしまうことにもなるのです。

もっとも、“占いは摩訶不思議で非現実的であるから占いなのだ”・・・と思われるならば、それも一つの考え方であり、それこそ今更なにをか況
(いわん)やだが・・・。

2003/04/05
2009/11/12 最終加筆

エッセー目次へ戻る


 2 福運の大きさと幸福のバランス

経済を語るとき、その経済そのものの大小や取り分を比喩する言葉としてよく耳にするのが「パイ」の大きさである。

いわく、バブルのときはパイそのものが大きかったから皆が潤ったとか・・・あるいはデフレの現在はパイが逆に小さくなり、皆の取り分が減って競争がさらに厳しくなった云々・・・といった用語でよく使われる。

この経済用語でよく使われるパイの大小は、そのまま人間の「運」の大小を語ることに置き換えることもできるのである。

福運については昔から「福・禄・寿」の三つを「三福」といって、「福」のありようをそれぞれ区別してきたのである。

すなわち財産家庭運の「福」、名誉仕事運の「禄」、寿命健康運の「寿」といったぐあいで、これら三つの福がすべて均等に備わることをもって福運の理想とされてきたのです。

しかしこの三つがそれぞれに相当の豊かさをもって備わるということはかなりの大きな運、すなわちパイの大きさが必要であり、これが可能となるほどの開運力に恵まれた果報者はそう多くを数えることは出来ないのである。

大半の者は限られたそこそこのパイの中でこの三つの福をどうバランスをとっていくか・・・すなわち自分なりの身の丈に応じた幸福感を慎ましやかに築き、かつそれをどう受け容れていくかが自身の自己存在にとって重要なテーマとなる。

この内的な幸福のバランスをうまく築くということは自身の野心に “お前はこの程度だよ” と引導をわたすことでもあり、これが意外に難しいのである。

それは足るを知ろうとしない自らの欲望との戦いでもあり、欲望は連鎖することで一つの欲望がさらなる欲望を生み、満足と飢餓が連動してその谷間の中で瞬間の幸福感を満たすといった、いわば病的な、かつ悪魔的な側面をもっていて、欲望は絶えず膨張してなかなか止まることを知らないスパイラルのなかに容易に陥いってしまうのである。

「三福」はどれが欠けても人生が傾いて円満性を損なうのであり、名誉や仕事に野心を持ちすぎて一つの「福」に固執することで欲望を逞しくすればたちまちにしてパイは歪み、知らず知らずのうちに全体の「運」が上手にバランスがとれずに破れが身辺にまで及び、大きく崩れ去ってしまうということも現実にはよくあることなのである。

たとえば限られたパイの中で欲望のバランスが傾き、事業が大きくなり過ぎることにより家庭運が侵食されたり、また財産が増えすぎることにより健康が蝕まれたり、あるいは逆に財運に恵まれなかったことがかえって健康と寿命によい結果をもたらしたということもあり得るということである。

このように小は小なりにといえどもこれら三つの福をバランスよく手中に収めることは意外と難しく、そこに不幸の種がいつでも、また誰にでも忍び寄っているといえる。

ではその不幸の種をどう見極めればよいのであろうか・・・?。
それは勢いのよい時にすでにオーバーワークになっていることが多く、いわゆる「好事、魔多し」で、事業が順調なときに健康を損なったり、あるいは家庭が崩壊への序曲を奏でていたりと、兆候は結構身辺にまで及んでいることが多いのである。

この警告信号のときに真剣に立ち止まって自らの不足のケアをしない限り、警告信号は時をいくらも経ずして赤信号へと突入してしまうのです。

誰もが一生懸命努力すればパイもまた無限大に大きくなるということであれば、皆が仕事も、家庭も、健康もすべてが満足となり、それこそ円満な人生を謳歌できるのだが・・・。

しかし人の世は矛盾と不平等に溢れており、人力だけではいかんともし難い別のパワーを誰もが実感し、人はこれを「運命」と定義して受け容れるしか他に術を持たないのです。

人生もまた経済と同じく個々人それぞれのパイの大小があるのであり、パイは自分の力でどんどん大きく出来るという力任せの幻想を先ず捨て、自分に合ったそのパイの大きさをどこかでちゃんと折り合いをつけ、かつ中身のバランスをどう保っていくかが大切であり、人生とはそもそもがそうしたことの繰り返しとも言えるのである。

すなわち社会の中で錬度を重ねて自分の分限を確立していく作業こそが、社会的人間としての自分自身との折り合いを見つけることであり、ここに至って始めて自分に合った、自分なりの人生をバランスよく確立することが可能となるのです。

何時までも福運の大きさばかりを追っているといつの間にか足元をすくわれ、周りには荒涼とした風景だけしか残らないこともあるということである。

2003/04/06

2008/03/11 最終加筆

エッセー目次へ戻る


 3
 個性化と差別化

個性的に生きるということは他者との差別化を確かなものとすることであり、個性は良いが、差別は悪いという論拠には少なからず矛盾があると言える。

差別は富の配分の自由を保証する限り、競争社会の中では他者との差別化が結果としての成功でもあり、このとき差別は半ば肯定され、その存在性を我々人類は未だ根源的なところで否定できないでいる。

そもそも自由資本主義社会は誰もが平等にチャンスを有することを保証しているが、競争の過程の中で結果として多くの者が不平等となることを否定していない。

しかし我々は入り口の自由と平等を選択したのであり、その結果として著しい差別、不平等が生じるのは、入り口の不平等よりはベターであるとの判断によるものと理解している。

この理解に立てば我々は、あるいは我々の子供にも結果としての不平等、差別に打たれ強い人格に育てかつ備える必要があるのではなかろうか?・・・。

何故ならば結果として社会は差別をきちんと否定できていない・・・否、むしろそのことを肯定しているからに他ならない。

いつの世にあっても他者との個性化が成功し、資本主義社会の恩恵を享受するのは少数派であり、大多数の者は結果として少なからぬ不平等を甘受し、その中で力強く生き延びなくてはならないのである。

「運」の良き者、悪しき者、あるいは普通の者の存在は、社会制度のいかんにかかわらず人類有史以来綿々と輩出し続けているのであり、この確固たる事実の前では、ことの善し悪しは別として誰もがその不平等性を認めざるを得ないのである。

そして存在する結果としての不平等の、おおむねの割合は「運」の良き者10〜20%位、悪しき者も同じく10〜20%位、残りの60〜80%近くが普通の者として、ある種平凡な人生を過ごしている人達ということではなかろうか?

すなわち多くの者が良き「運」を謳歌できる少数派になれない現実を理解すれば、人生にとって一番大事なことは、資本主義のルールのもとでの「少数派としての勝ち残り」ではないという価値観を、むしろ普通の人こそが持たない限り、人類の60〜80%を占めるいわば多数派であるはずの普通の人そのものが脱落者となってしまう自己矛盾に陥ってしまうのである。

普通の人といえども多数派である限り多数派それぞれに与えられたステージ、ステージでの自分にとって一番自然な生き方とは何か?・・・という普通の中でのささやかではあっても個別化を確立することのほうが意義ある個々人の人生を演出する上でより身近で大切と思われるのだが・・・?

少数派としての個別化を皆がこぞって求める前に、先ず多数派の中でのルールあるコミニュケーションができているか?・・・が大切で、まさにそこがベースとなって始めて個性が生かされて伸びるのであり、「個性=
(イコール)常識破り=(イコール)我がまま」で成功するには、少なくとも自分が「運」の良き者の少数派に属しているという確信が最低限必要とされるのである。

あなたは、あるいはあなたの子供は少数派を維持できるほど強い?あるいは恵まれた「運」を生まれながらに有しているという確信がありますか・・・?

もしそうでないなら、多数派を有意義に生きていくためにも結果としての不平等、差別に打たれ強い人格に我が子を育て、かつ自分自身の備えとしても意をはらう必要性があると思いませんか。

誰もが個性的な生き方・・・すなわち成功神話に偏重するがあまりに普通の人としての社会の中でのマナーの体得がおろそかにされていませんか・・・???・・・

2003/04/13
2008/03/11 最終加筆

エッセー目次へ戻る


 4 努力と開運はイコールか・・・?

人は今日一生懸命努力すれば明日は今よりは少なからず向上するものであり、さらに明日また一生懸命に努力を重ねることで明後日は僅かながらであったとしてもより進展が期待できる・・・故に日々の努力は開運への確かな一歩である・・・。

これが一般的な見方であり正論であって正しい・・・ が、しかし必ずしも実際の人生に照らし合わせて事実ではない場合もある。

人によっては努力を日々強いられたり、あるいは自分に頑張りを一生懸命に課すことで逆に「運」が萎縮してしまうケースも運命学的に判断すれば “ある” と言えるのです。

むしろ逆にあまり気張らない環境に身を置くことで、却って自分の運がゆったりと伸びてくるということもあるのである。

努力は大事ではあるが別の見方からすれば日々疲れる行為でもあり、エネルギーの消費も多く、個人差でその人にとって有利、不利の発現の仕方が異なるケースもあるのです。

すなわち人によっては努力を強いられること自体、もうすでに運が停滞して自分にあっていないということも、現実の人生には “有りだ” ということである。

誰もが額に汗して刻苦精励すれば成功するとは限らない個人差としての微妙で運命的な部分があり、結果として無理がたたって失職、転職を繰り返す羽目となるなど、自らが求めた刻苦精励の中で自身が沈没していくとなれば、これはもう取り返しのつかない愚行といえる。

たとえ給料が少しぐらい削られて安くなっても、気張らない職種で自分にあったペースの努力を費やすことで日々が流れるなら、そのとき始めて仕事は安定して落ち着きを取り戻すことが出来るという理屈もあるのだ・・・ということを理解してほしいのです。

たとえ最初は給料が少し安くても落ち着いて仕事が長続きするなら、それこそ長い目で見れば昇給も期待できて社会的な信用も高まり、結果自分自身の自信につながって好転のリズムを作り上げることが出来るのである・・・。

もし自分がこのようなことに思い当たるようなら、早速に頭を切り替えて省エネの人生を心がけてみるべきで、必ず開運への確かな一歩となるであろう。

自然な生き方とは何よりも人それぞれの適、不適にかかっており、自分にとって一番呼吸のしやすい生き方・・・たとえそれが少しく一生懸命でなくても・・・結果としてこの方が長続きして運が開くということが何より大切であり、これが理解せざるときは自分の努力の方向性すら定められないことになる。

2003/04/16
2011/05/05 最終加筆

エッセー目次へ戻る


 5 自立と依存のはざまで

子は親への全面的な依存から出発して少しずつ自立への自我を蓄え、やがて大人となって親元を離れ、恋をして他人との婚姻という形をとって新たなるコアを形成していく・・・。

これが一般的な人間の、子から大人へと旅立つ成長のプロセスであり、自分の愛の巣を営むことで自らが親となる。

皆が貧しかったころは狭い家の中で家族も多く、子は親に依存しながらもこの不自由で窮屈な暮らしから抜け出すことを強く望みながら成長し、親もまた子供にいつまでもお金をかけられない経済状況もあって、子の親からの自立は当たり前のごとく両者の利害が一致して、巣立ちは子供にとっても自由への羽ばたきであった。

ところが昨今、経済が豊かになるに従って様相は変貌し、少子化で兄弟姉妹も少なくなったことで親は可愛い我が子に充分お金がかけられるようになり、子供も個室つきの暮らしの中で親の愛を受け容れていった方が無理に自立するより自然だと思うようになった。

この環境の変化の中で親子は、お互いが共存というよりは、むしろ悪しき依存というべき共生関係をつくり出し、双方が自立しなければいけないと思いつつも一種もたれ合いのような奇妙な安逸にふけることとなる・・・。

しかしこの奇妙な依存関係は本来自立しなければならない子供の心の葛藤となり、むしろ真面目で心優しい子ほど、いつまでも自立できない自分自身に対して自己嫌悪に陥りやすく、やがてこの「心の闇」は自分をいつまでも甘やかして自立の旅立ちを殺(そ)いでいる親への密やかな恨みへと転化される。

一見逆恨みのようにも思えるが自力で巣立ちできないが故に自分自身の不甲斐無さを責め、返す刀で親をも傷つけることで心の叫びとし、自立と依存の狭間にあってもがき、苦しむのである。

そしてその苦しみが暴力に転化され “わたしがこんなに苦しんでいることがお前らには分からないのか” という自虐的な暴力に発展してしまう・・・まことに幼く拙い自分勝手な、かつ痛ましい方法で訴えざるを得ない悲しさがそこにはあるのである。

当たり前のことだが子は成長するに従って大人になる・・・ いや、ならざるを得ないのである

このならざるを得ないという前提に立てば、親は可愛い我が子の健やかで、かつ速やかなる巣立ちを常に念頭において、少しぐらいはお尻を蹴飛ばすぐらいの厳しさで、羽ばたきを促すような接し方も必要ではなかろうか・・・?

何故ならば、養育の一番の目的は親元から自立して大人になることではないのか・・・?
すべての親も、学校も、子供が自立して社会的な人間として社会に巣立ちすること・・・すなわちこの一点を目標に養育しているといっても過言ではないし、またそうあるべきであるからである。

養育は偏愛でもなく、いわんや盲愛でももちろんなく、また純愛でも却って独りよがりとなって愛は相手にうまく伝わりにくい・・・。

誰もが自立して世の荒波に立ち向かっていかなくてはならない「備え」として養育を考えるならば、幼き頃より「賢愛」を持って常に巣立ちを目標にした接しかたが、不本意な依存関係に陥らない最低限必要な「愛」のありかたとも思われるのだが・・・・。

「賢愛」・・・。
昔からよく「可愛い子には旅をさせろ」と言われているが、昔の「旅」は今の「旅行」と違って生死を分けた「試練」そのものだったようで、その辺の事情を勘案すれば今も昔も子育ての要諦は少しも変わらないのかもしれない。

2003/04/24

2008/03/13 最終加筆

エッセー目次へ戻る


 6 強くて優しい人?は何処(いずこ)に・・・?

女性からよく望まれる人物像に「強くて優しい人」があげられる。
この「優しい人」も、「強き人」も周りに結構見受けられるような気がするが・・・。

しかし、ここで一つ疑問がある。
「強くて・優しい」はセットとしてとらえてよいのか?・・・。
すなわち優しい人は本当に強いのだろうか?・・・また強き人は本当に優しさも兼ね備えているのだろうか・・・?

ひょっとして優しい人は自分が弱くて喧嘩が嫌いだから、他に気を使って寛容に見せているだけではないのだろうか?・・・。

またひょっとして強い人は、自分では気がつかないところで我がまま強引となって、他に対して優しさを失ってはいないだろうか?・・・。

もしそうだとしたら優しさの裏には自嘲的とも言える屈辱が存在し、強さの中には喧嘩に訴えてでも自分の意見を押し通そうとする、力による支配が優越感となって存在することになる。

意外と強さと優しさは表裏の関係であると同時に、むしろ相反するファクターと考えたほうがより自然と思われるのだが・・・。

この理解に立てば相手の優しさを評価し、これを良として選択したならば、その優しさに免じてその裏に潜む弱さ、脆さには寛容であるべきであり、逆に強さを評価して選択したら、その強さの魅力に免じてその者が我がまま強引となって、時として優しさの配慮を欠くのも受容する覚悟はしておく必要があると言える。

最初に戻れば「強くて優しい」人間はこの世に皆無ではないにしても、砂浜でダイヤモンドを見つけるに等しいほど結構難しい要求なのだという自覚ぐらいは持つべきではなかろうか・・・?

2003/05/16

エッセー目次へ戻る


 7 人間は「神?」になれるのだろうか?・・・?

「人」と「神」との違いは一般的な私見ではあるが結構単純と言える。
それは神に備わって人になきものであり、・・・・・ 先ず第一に永遠に生きられる「寿命」があげられる。
人間は無限に生きられない・・・・・。

第二には常に背中合わせの「生と死」である。
人間はいつ死んでもおかしくない脆弱な肉体によって維持されており、生まれて死ぬまで常に命の保障はない・・・ いつ死んでもおかしくない「生」を、これまた何時
(いつ)死んでもおかしくない「死」まで生き延びているという “はかなさ” がそこにある。

第三は毎日食料としてのエネルギーを補給しないと「生」そのものが維持できない仕組みになっており、為に胃袋の悲鳴ともいえる空腹と、同時に自身の存在そのものを脅かす「飢餓感」から潜在的に逃れられない。

もし・・・この三つの弱点がなければ・・・・・。
人間は無限の「寿命」の中で功を焦る必要もなく、刹那せつなに背中合わせの「死」に怯える必要もなく、さらには「飢餓」の恐怖から食物を奪いあう必要もなくなるのである。

無限の生のなかで病むことのない命を、其の時その時のこれまた無限の時間を使って、今なす事があれば成せばよし、何もなす事なければ焦ることなく無為に過ごせばよいのであり、それは悠久の時間の中で無限の生が流れる世界とも言える。

この三つの基本的要素が満たされたとき、始めて人間は大いに「神」に近づくことが出来、あるいは神そのものにもなれるのかも知れない・・・?
ただこれが生き甲斐のある生き方かどうかは別として・・・・・。

それにつけてもとかく俗世で “我は神なり” 、あるいは “神の生まれ変わりなり” と、名乗る者多きも、基本的理解として「腹減る」神は、例えそれがある種尊敬に値する者であったとしても、どこか “いかさまっぽい” と言わざるを得ないのだが・・・。

腹が減るということは動物としての人間が抱える、最も卑近な生き延びるための自我の芽生えであり、かつ根源的な欲望の出発点でもある。

これあるかぎり「人」と「神」を隔てた川は “遠く” かつ “深い” と思うべきで、 これは心貧しき我れの偏見であろうか?・・・??。

関連したエッセーを「14 パラノイアと神の狭間で」、及び「20 神と宇宙と」、さらに「28 自我と帰依・・・そして信仰心」を追加しましたので併せてお読みいただければ幸いです。

2003/05/31
2004/06/22 最終加筆

エッセー目次へ戻る


 8 友達が少ないと悩むあなたに

友達は少ないより多いほうが人脈も豊富となり、なによりも賑やかではある。
しかし友達は多ければ本当に幸せなのだろうか・・・?逆に友達が少なければ本当に不幸せといえるのだろうか・・・??

何十人、何百人と友達があれば、たしかに賑やかで多くの人に受け容れられている証左ともいえるが・・・しかし、このうち本当の意味での真の友達がどれほど数えられるであろうか?
真の友の定義にもよるが、意外と少なく、片手か多くても両手で数えられる範囲に絞られてしまうのではなかろうか?・・・。

仮に十人位しか友達をもたない人であっても、真の友がそのうちの半分位であれば、結果として本当の意味での大切な友達の数はあまり変わらないともいえるのである。

もともと友達が少ないと悩む方の共通した行動原理にマイペース性が上げられる。
自分が好きなこと、気に入ったことに対してはことのほか思い入れ深く、マニアックともいえるほど熱中するかと思えば、反面興味のないことには驚くほど無関心であったりと、好き嫌いがストレート過ぎるところがある。

このような人には発想のユニークさを生かしたスペシャリスト的生き方こそ大切で、技術や教養が生かされない場合は単なる変わり者だったり、あるいはストレートさが相手に対し無遠慮で生意気な付き合いにくい人、ということで敬遠されがちとなってしまうのである。

そうしたタイプの人は友達が少ないことを悩むより、むしろ好きな趣味や技術を生かして特殊な人間関係を少数でよいから築くべきであり、自分のこれからの人生を「狭く、しかし深く」に割り切ってとらえていけば、そのとき始めて眼前の雲は晴れるのではなかろうか・・・。

自分の不足するところを一生懸命努力して克服することは、自分自身への自信にもつながり大切で美しきことでもあるが、しかしそれが出来ると言う事はもともと得意ではないにしても格別苦手でもなかったともいえるのである。

むしろ努力すればするほど劣等感から自信を失い、さらには自己嫌悪に陥り、果ては自分を愛せなくなって自己否定にまでつながるようならば、これはもう看過出来ないほど深刻で自分自身を必要以上にさいなむだけの愚行ともいえる。

人生はそうそう思うようにならないという前提に立てば、苦手なことを一生懸命克服して得意になるよりは、苦手を苦手として素直に受け容れ、そのエネルギーを得意なことに振り向けるほうがよほど楽しくかつ自然だと思うのだが・・・。

2003/06/11

エッセー目次へ戻る


 9 文化としての「建前」と「本音」

建前という言葉には何かよそよそしさと体裁だけをつくろって心がない等のイメージから、あまりよい言葉の意味として捉えられていない嫌いがある。

しかし秩序は建前であり、喧嘩をしない程度の緩やかな人間関係の構築もこれまた建前である。
正義も、倫理も、マナーも、せんじ詰めればやはり建前である。

いわば建前論が社会秩序を育て、マナーを育て、人間関係をマイルドにし、大きく言えば社会正義を守る寄りすがりともなっているのである。

建前を語り、建前を守ることは、教養や品性や、人間としての高い熟練度さえも要求される高尚な、人生をほどよく生活する上でのテクニックでもあり、基本的な人間関係を育むうえで欠かせない大切な文化というべきではないのだろうか?

建前という言葉に対比されてよく使われるのが「本音」である。

いわく、「本音」は心正直で嘘がなく、より人間らしい素直な生き方で、「建前」は形ばかりで自分の心に正直でなく、どこか嘘っぽくて人間味がない・・・という解釈に押されてか、個人主義全盛の昨今ではとかく本音の方が受け容れやすい社会環境であることは事実である。

本音は自由闊達で自分に対して正直ではあるが、反面他人に対して自己本位に陥りやすく、為に欲望がたやすく肯定され、単なる我がままと心優しき正直さが自分のその時その時の気分で勝手に使い回しされやすい。

すなわち畢竟
(ひっきょう)本音とは自分の欲望を優先した正直でもあり、それは単なる損得の理論に簡単にすり替わりやすく、強い者勝ちの秩序を容易(たやす)く受け容れてしまう弱者切捨ての弊をなかなか拭えない。

自由競争社会の中で論理としてのわかりやすさはあるが、社会性としての人間の熟練度を育んでいく文化的な土壌を欠きやすいといえる・・・文化は伝承して育てていかないと知らず知らずのうちに痩せ細ってしまうところがあるのである。

社会性の中での優しさとか思いやりのバックボーンは正義や、倫理や、マナーであり、これらはいずれも自己抑制的でなかば禁欲的な要素も強く、それ故に幼き頃より躾として絶えず教え込んでいかないと文化として継承されなくなる危さがそこにあるといえる。

それにひきかえ本音はいわば人間の本性に根ざしたものであり、ことさらに文化として守らなくても、あるいは教えなくても自然に大人になれば身についてくる“習い性”のようなもので、伝承し、かつ教えなくてはなかなか身につかない建前の、教育としての重要度は比較にならないほど大きいと思うのだが・・・。

親たる者はなるべくならば子の前では、たとえそれが大人の本音として事実であっても、「損」だから、「得」だからこうすべき、あるいは「不利」だから、「有利」だからこうすべきだとか、あまり早くから大人の利害損得でものを言わずに、むしろ「建前」の大切さを優先して教えるべきである。

さらにはその「建前」の美徳を絶えず解き、自分本位に偏り過ぎることを常に戒めることで、はじめて大人になるに従い自然と備わる「本音」の心とバランスされるのではないのだろうか?・・・。

社会的な人間の教育とは元来そういうものではないのかと思うのだが・・・。

2003/07/20
2003/07/21 最終加筆

エッセー目次へ戻る


 10 子供部屋の個室化とコミュニケーション

子供にとって最初のコミュニケーション相手は親であろう。
これが成長し大人になるに従ってコミュニケーションの輪を広げ、新しい人間関係が形成されることで社会的な人間としてのノウハウを身につけていくことになる。

いわば人間関係を上手にコミュニケーションすることが子供から大人になるための助走路であり、それはあたかも飛行機が大空に飛び立つために疾走する滑走の時間に似る。

しかし近年、人間関係を構築することの未熟な若者が増え続けているという。
核家族化という言葉が言われだしてずいぶん久しいが、家庭の中での家族の少数化も少なからず影響しているのであろう。

そもそもコミュニケーションとは、会話が常に豊富で濃密であるという事だけでは捉えきれない側面がある。
すなわち人間関係のコミュニケーションとか会話は、いつでも意義があり、かつ楽しいこととは限らないのである。

もともとコミュニケーションにはある種の苦痛も伴っているものであり、お互いが自制して無用のトラブルや誤解を招かないように意識、あるいは無意識に配慮する知恵をも含まれた高等戦術でもあるということである。

たとえ会話がなくても自分の視野の中に存在するだけでコミュニケーションは成立し、配慮することを強いられるのであり、故にだからこそ社会組織という団体生活の中では、人間関係の熟練度は必要にして欠くことのできない生活の知恵として、誰もがある程度はマスターしなくてはならない「生きる術」とでもいうべきものであります。

近年は住宅事情の改善から子供部屋を持つ家庭が大半となり、子供部屋にはベッドの他にも便利な生活備品が色々と置かれ、一日中過ごしても不自由を感じさせない子供の城として、密室化される道を辿りつつある。

子供は子供部屋に入ることで煩わしいすべての人間関係から開放され、親もまた、子供部屋に子供がいるだけで、すべてが順調に推移しているが如くの安心感に浸ることができたことで、そう方の利害が暗黙のうちに一致したといえる。

言い換えれば親も子も互いの面倒臭いコミュニケーションをサボタージュしてしまった・・・あるいは知らず知らずとは言え、結果として放棄したことになってしまったのである・・・??

重ねて言えばコミュニケーションとは自己抑制であり、相手に気を使わなければ成立しない側面があり、故に楽しくないときはすこぶる楽しくなく、心も傷つき、かつ面倒臭く、そしてさらに言えばそういった感情の「克服ゲーム」でもあるといえよう。

だから人間が熟練されていく大切な教育の一環として、あるいは過程として理解し、これを反復・経験することでのみ会得できるという意味からも、欠かせない対面交渉術の訓練、すなわちロールプレイングなのである。

この大事な対面交渉術の訓練が、親子のコミュニケーションから出発していると考えるなら、子供を安易に子供部屋に追いやってしまうことの是非を、我々大人は問わなくてはならない。

はたして子供部屋は本当に必要なのか?・・・。
あるいは必要としても子供部屋に色々な生活用品を便利に揃えることが望ましいのか?・・・。
かえって便利が原因で子供が自分の部屋をまるで治外法権のようにして篭ることになってはいないのか?・・・。

大人になるための助走路として、コミュニケーションが子供にとっては必要不可欠の訓練である・・・という観点から改めて子供部屋のありようを考え直すべきと思うのだが・・・。

そうした観点から見れば、むしろ子供部屋には最低限必要なベッドのみと割り切り、勉強机やその他の便利電化器具はオープンスペースにまとめて設置し、子供部屋は夜寝るだけの質素でシンプルな空間に置き換えてみてはどうであろうか?

そのオープンスペースで兄弟姉妹、さらにはお父さん、お母さんも書斎机やパソコンを置き、その家の学習スペースとしてお互いが意識しあったコミュニケーションの場を、ことさらに家庭環境の中に創る必要性がすでに求められていると言えるのである。

家族構成の頭数(あたまかず)が少なくなった現代では、幼き頃から意識的にこのような訓練の意味を問い、実践していかないと、社会的人間としてのコミュニケーションを面倒臭がって煩雑な人間関係から逃避する人種が、社会からドロップアウトしてしまう時代にすでに突入している理解が必要と思うのです。

昔から「三つ子の魂百まで」とよく言われるが、無意識に身につく躾けは学校教育の場で一方的に期待するには年齢的にもすでに遅いという他ありません。

やはり基本的なマナーの習得は、家庭で幼いときから意識的に愛情を持って、かつ厳しく躾けるしか道はないのでは・・・と思うのですが・・・。

2003/07/23

2008/03/13 最終加筆

エッセー目次へ戻る


ホームページのトップに戻る


「人生をエッセイ」
=目次(11)に=

次のページ 「人生をエッセイ」 次のエッセイに進みます


エンド・バー