高耶は、すぐに助けにいきたい気持ちを堪えて、すばやく後を着けた。
千秋の動きはわからなかったが、きっと一緒に来ている筈だ。
大蛇はこちらに気付く様子もなく、一心に奥へと向っている。行き先は、きっとあの沼に違いない。
あの後、探ってみても、何も見つからなかったが、あそこに何があるというのか。
沼に着くと、大蛇はそのまま沼へと入ってゆく。浅い筈なのに、どんどん沈んでいるようなのだ。
このままでは、直江も一緒に沈んでしまう!
高耶は念を放った。もう住処を知るまで待っていられない。
だが、大蛇に放った念は、激しいスパークと共に散った。何者かが弾き飛ばしたのだ。
「なに!」
高耶の左方向に、何者かの影が見えた。
「雑賀衆か?」とっさにそう思った。
しかし、そちらに構ってはいられない。直江を助けなければ。高耶は大蛇ではなく、沼に向けて力を解放した。
地響きをたてて、沼が割れた。一面に生えていた葦が、沼の水と共に舞上がる。地面が抉り取られ、沼のあったところは、今はもう、地割れを起こした、黒い大地に姿を変えていた。
大蛇が中央で、とぐろを巻いて、こちらを見ていた。直江は、しっかりと巻き込まれたままだ。
摩利支天の数珠の効力は、既に消えていた。
大蛇は敵意のこもった眼差しで、じっと高耶を睨んでいる。目と目を合わせて、にらみ合ったまま、両者は微動だにしなかった。
高耶は心の中で、千秋に呼びかけていた。高耶の念を遮った者が、何もしないでいるとは思えない。
やっと千秋が応えた。実は、高耶が直江を追っている間に、千秋は何者かの気配を察知して、そちらを追っていたのだ。
「こっちはまかせろ。」
千秋の返事に、高耶は安心して、大蛇との勝負に集中した。
「直江を離せ。」
高耶が叫んだ。大蛇は答えの代わりに、稲妻のような念を、高耶の足元に叩き込んだ。
高耶の体から、紅蓮のオーラが沸き立った。
直江に当たらないように、用心しながら念を放つ。大蛇が直江を巻いたまま、しゅるしゅる廻った。
「お前の相手は、そいつじゃない。直江を離せ!」
大蛇の思念が流れてくる。
あの人がこない。待っているのに。
寂しい、寂しい、もう誰でもいい。
そんな思いで、直江を連れて行かれてたまるか!
次々と念を撃ち込むが、大蛇はその度にかわして、動き回る。
直江を離させようと、高耶は大蛇に飛びついた。やみくもに体をくねらせ、尻尾で叩き落とそうとするが、高耶はしがみついて離れない。かまくびをもたげ、高耶に噛み付こうとしたとたん、大蛇が不自然に折れ曲がった。
その機を逃さず、念を叩き込んで、高耶は遂に直江を奪還した。
「直江、直江!」
呼びかけても、反応がない。必死に呼びつづける高耶の声は、悲鳴に近かった。
直江を抱きしめ、髪に顔をうずめて、心で呼びかける。
「戻って来い、直江。俺のところへ。やっと景虎を見つけたんだろう?俺を見つけたんだろう?
俺を置いて逝くな、直江!」
腕の中で、直江がぴくりと動いた。かすかな息が、耳に触れる。
「直江!」
止まっていた時が、動き始めた気がした。
直江が咳き込んだ。ぜいぜい息をしながら、
「大丈夫…です。それ…より、大蛇は…」
はっとして、高耶は顔を上げた。
そうだ、あの時何があったのか。直江を生き返らせるのに夢中で、大蛇のことなど頭になかった。
大蛇は青面金剛と戦っていた。
千秋の放った木っ端神だ。千秋も念で大蛇を押え込もうとしている。
どうやら、千秋が助けてくれたらしい。凄まじい念の応酬に、まるで嵐のように、木々がバキバキと音を立てて倒れる。
猛烈な風と走るプラズマで、立つ事すらままならない。
千秋の傍らに、見知らぬ男が倒れていた。
必死に上体を起こし、大蛇を見つめている。だが、もう戦う力は残っていないようだ。
高耶は、直江を座らせると、立ち上がって、大蛇に向けて念を放った。
手加減なしの念が、炸裂する。
大蛇の周りで、沼の水を吸った黒い土から蒸気が上がった。
高耶と千秋の念が発した熱で、水分が蒸発しているのだ。
「雷、かけませい」
すかさず直江が、地面に雷を走らせた。電流が大蛇を直撃する。
大蛇は苦しげにのたうっていたが、やがて力尽きたように動かなくなった。
その姿をじっと見つめる男の目からは、涙が流れていた。
千秋が、大蛇に声をかけた。
「お前の探し人は、こいつじゃないのか。」
大蛇の目が、男を見た。男も大蛇を見た。二つの視線が絡み合った時、大蛇が女の姿に変わった。
倒れ伏したままで、必死に手を伸ばし
「あなたが頼宣さま?あなたは何度も、この沼に来た。けれど、一度も笛を吹いてくれなかった。なぜなのです。なぜ合図をくれなかったのです。私にはわからない。姿も声も、思い出せない。頼宣さまなら、ここに来て私に触れて下さい。」
消え入りそうな声で、大蛇が懇願した。
「すまぬ。私にもわからぬのだ。自分が誰かも、笛の吹き方も。そなたとの事も、思い出せぬ。ただ、気がついたらここに来ていた。」
這いずって女の所まで行くと、男は恐る恐る、女の手に触れた。
「ああ、頼宣さま。」
愛しげに男の手を頬に押し当て、女はただ泣いていた。男も泣いていた。
男は憑依霊だった。記憶もなく、なぜ成仏できなかったのかもわからない。
ずっとこの島で眠っていたのが、雑賀衆が出入りしたことで、目覚めてしまった。
それ以来、なぜかこの沼に来てしまうのだ。
ある日、ここで雑賀衆が大蛇の封印を解いた。彼らは男に、大蛇を操り、雑賀衆の兵力にして欲しいと言ったが、男に記憶がなく、大蛇も彼らの言う事をきかないので、諦めて去ったという。
だが、残された男と大蛇は、思いの行き場がなかった。どうしたら良いかわからないまま、大蛇は人を浚っては沼に引き込み、男は黙ってそれを見ていたのだ。
「なんで、さっさと言わなかったんだ。」
千秋が言った。
「記憶がなくたって、気になったんだろう。お前、景虎が攻撃したとき、邪魔したじゃねえか。お前もこいつのこと、大事に思ってたんだろう?」
高耶の胸が痛んだ。男はきっと、自分が頼宣じゃなかった時が怖くて、言えなかったのだ。大蛇が待っているのが、もし自分でなかったとしたら。男の思いは、どこに行けば良いのか。
「結局、臆病なんだよ。お前がどこの誰でも、気持ちが本物なら、それでいいじゃねえか。」
「長秀、もうよせ。何をむきになっている。」
直江も、苦しげな瞳をしていた。
「こいつらみてると、なんかやりきれねえんだよ。どうせ生きてる間に、封印解く気なんかなかったくせに、なんでそんな約束するんだ。なんで期待持たせるんだよ。その方が、ずっと酷だろうが!」
いつもクールに、割切って生きているような千秋の、隠された一面を垣間見た気がした。
信じて裏切られるつらさ、悲しさを、千秋も知っているのだ。思いやりが胸に沁みる。
「それでも、彼はこうして会いに来た。思いは真実だったと、私は思いますよ。」
直江が二人を慈しむように、そう言った。
「私を封印する時、頼宣さまは、いつか必ず封印は解ける、そうしたらまた会おう。そうおっしゃいました。けれど、人の命は短いもの。頼宣さまとお会いしたのは、あの夜一夜限り。私も、姿も何もかも忘れてしまった。ただあの時の約束だけが、忘れられなかった。蛇霊などと本気で交わして下さった約束が。頼宣さまとお会いできて夢のようです。」
大蛇が、頼宣を見つめて微笑んだ。頼宣は大蛇を抱きしめて、何も言わずにただ泣いていた。
高耶が千秋を見た。千秋は頷くと、毘沙門天の印を結んだ。
「バイ」
「我に御力与えたまえ。」
「調伏。」
白い光に包まれて、二人の魂は吸い込まれていった。
満月を背に、高耶は岬に立っていた。
直江は、しばらく黙ってその姿を見つめていた。
何を思っているのかは、計り知れない。けれど、なぜか彼が直江を待っている、そんな気がした。
「直江、もし俺が景虎じゃなかったら、お前はどうする?」
高耶は瞳を揺らして尋ねた。
「あなたは景虎さまです。でも、もしも違ったとしても、私の景虎さまはあなただけです。
それではまだ、不安ですか?」
直江が答えた。ありったけの気持ちを込めて。直江にとって、もう高耶は景虎だった。
決して失えない、何よりも大切な存在。
この魂が、他にあるはずがない。
「訊いてみただけだ。」
高耶はそういうと、黙って海を見つめた。
隣に立って、直江も同じ海を見た。
この海は、相模へと、そして越後へと繋がっている。
例え何も覚えていなくても、全てが高耶という存在に繋がっている。
それだけで、世界の全てが愛しく思える。
この気持ちをいつか伝えたい。そう思う直江だった。
満月が、煌煌と高耶を照らす。彼の行く手を照らし、守るかのように。
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