『驟雨』

 踏みしだかれた青草の匂い。
降り始めにだけ立ちのぼる、ひなたくさい大気の香り。
暖められていた土のぬくみを背中に感じて、自分を庇った男の重みを全身で受け止めて。
ただ、その頭を抱きしめていた。
それこそ雷に打たれたようにぴくりとも動かない男の、しなやかな髪に指を絡めて。

身体越しに伝わる、早鐘のようだった鼓動が静まっていく。
それにつれて次第に強く耳を打つ雨音に、高耶も黙して眼を瞑る。
ぱしぱしと葉っぱにあたる音だけが鼓膜に響いて、この世界にたった二人のような錯覚に囚われる。
瞼をあげてもそれは同じ。
視界は白く靄に霞んで。花畑に倒れ臥す自分たちのほかに、生き物の影はない。

雨粒は容赦なく高耶の顔面を叩き、いつか背中に敷いた草の温もりは消えて、地面に浮き始めた水の冷たさに取って代わる。
それでも動けなかった。
雨に閉じ込められた静寂を、腕の中にいる男の沈黙を自ら壊す気にはなれなかった。

あれほど、死なないと決意を告げたばかりなのに。
ここになら、囚われてもいい。おまえとふたりこうしていられるのなら。

甘美な麻薬に犯されるようにそう考えてしまう自分がいることを、この男は知っているのだろうか。

おまえをおいて逝ったりしない。
でも、おまえと一緒ならオレはたぶん何処でも構わないんだ。
たとえそれが浄土でも、この世の地獄でも、…閉ざされた幻影の世界でも。
そう思うオレはおまえにとって、是か?…非なのだろうか。

悩ましげに髪をかき混ぜる仕種をどう受け取ったのか、直江が顔をあげ、窺うように視線を合わせてきた。
翳りのせいで深みを増した虹彩。その瞳が心配そうに高耶を覗き込んでくる。
「濡れてしまいましたね…」
「それをいうなら、おまえだって」
(…元はといえばオレのせいだ)
言葉を途中で呑み込んで幻想を振り払い、手を引かれるようにして身を起こした。
背中も頭もずぶ濡れなのはお互いさまで、互いの身体で守られていた胸のあたりにもどんどん雨は染み込んでいく。

「帰りましょう。早く身体を温めないと……」
「ああ」

 

花畑を後に、驟雨の中をふたり駆けた。
道行く人ととていない田舎の道を。
走って、走って、やがてたどり着くかりそめの宿り。
息せき切って、同時に庇に飛び込んで。
その子どもじみたせわしなさが可笑しくて、どちらからともなく笑いだす。

「シャワー、先に浴びてください」
目元にその名残を残し、柔らかな表情でタオルを渡しながら直江が言った。
そのまま傍らをすり抜けようとするのを高耶が止める。
「……一緒に入ろう」
おまえだってびしょぬれなんだからと、少し怒ったように視線を逸らしながら言い添える。
「はい…」
瞬間、言葉を失った直江は、やがて笑みを深くして静かに頷いた。

 

頭上から降りそそぐ温かなお湯を、緩く抱きあいながらふたりで浴びた。
狭い洗い場いっぱいに湯気がこもる頃、今度はバスタブに座り込んでお湯に打たれ続けた。

「昼間の光で見るあなたの肌は…とても綺麗だ……」
「…ばかやろう……」
首筋を行き来しながら囁く男の睦言に、高耶が返しすぐにその貌を引き寄せる。
(綺麗なのは、おまえの、その光に透ける鳶色の瞳の方だ……)
囚われていたいのは雨よりもその瞳。自分だけを映すこの男の。

せめて今だけは自分の気持ちに素直でいよう……。

秘めやかに重ねられた唇からは、やがて幽かな水音が洩れだしていた。

 

 

このお話は「よろず手習い・菅原や」のこうれん様から頂きました!
私の『春雷』からイメージして下さった、流れとしては続きにあたるお話…とのことです(^^)
こんな素敵なお話になるなんて!!! 本当にすっごく嬉しくて、最高に幸せな気持ちです〜♪
ありがとう!! こうれんさん!!!

 

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