小田原編

 その朝も氏照は海岸に佇み、相模の海を眺めていた。
「三郎も、こうして海を眺めるのが好きだったな。」
つぶやくようにそう言うと、いつのまにか近くに来ていた小太郎に、
「何かあったのか。」と問いかけた。
「はい。三郎殿がこちらに来られるとのことです。」
用件だけを告げ黙って控える小太郎をそのままにして、氏照はもう一度海を見つめた。

 越後に行った三郎をこの海に連れて帰ると誓いながら、その願いも届かず死なせてしまった無念を、氏照はずっと忘れる事が出来なかった。
あのときもっと早く行けていたら…。なぜ自分は三郎を助けてやれなかったのか…。
あれから400年。三郎は浄化することもかなわず、苦しみながら生きてきた。
その間を三郎と共に過ごした直江は、あの御館の乱で敵方だった男だ。
いわば仇といっても過言ではない相手と、三郎はどんな思いで生きてきたのだろう。

「直江と・・来るのだな。」
ここに来る理由はわかっている。直江と共に暮らすことを、告げに来るのだ。あの直江と。
「わかった。館で待とう。」
打ち寄せる波を拒むように、氏照は海に背を向けて歩き出した。

 
小田原まで来た二人は、氏照の屋敷にほど近い海辺のホテルの前で車を止めた。
氏照の屋敷にも駐車スペースは十分ある。それなのになぜこんな所に止めるのかと、高耶は思わず運転席の直江を見た。
「氏照殿には、私一人でお会いします。すみませんが、私が迎えに行くまで、ここで待っていて頂けませんか。」

直江の言葉に、高耶は目を見張った。が、すぐに小さく頷くと、
「オレは海にいるから。好きなだけ話して来いよ。」
すっとドアを開けて車から降りると、微笑んでそう言った。
お前なら大丈夫だと言われたような気がして、直江は大きく頷いた。
「できるだけ早く迎えに行きます。」
海に向って歩き出した高耶に告げると、直江は氏照の屋敷に車を走らせた。

氏照は奥の座敷で待っていた。あいさつの後、二人は黙って向かい合った。
こうしていると、あのときの事をいやでも鮮明に思い出す。
鏡に閉じ込められた三郎を取り戻す為に直江がとった行動は、氏照でさえ驚くほどの凄まじさだった。
あれは忠義を超えていた。
その思いの激しさが氏照を圧倒した。
『この男は私から三郎を奪ってしまう。』心底からそう恐怖した。
同じ思いを今また感じて、氏照は目を瞑った。

重い沈黙を破って、ついに直江が口を開いた。
「氏照殿。私を許せないのはわかります。ですがどうしても、あなたに認めて頂きたいのです。大切な人に反対されたままでは、高耶さんに申し訳無い。」
直江の真摯な眼差しが、氏照の胸に深く刺さった。
三郎がどんなにこの男を大事に思っているかなど、とうにわかっている。
自分のことなどいつも後回しだったあの三郎が、いくら反対してもいっさい聞く耳をもたないばかりか、今もこうして直江ひとりに話をさせている。
それだけ直江を信頼しているのだ。氏照は、二人の絆の深さを思い知らされる気がして、目をそらした。

直江のことが、気にいらないのではない。今更、仇と恨むつもりもない。
ただ、この男と一緒にいるときの三郎が、自分の知らない表情をするのが気に入らない。
どうにもイライラする。三郎の心の内にいつのまにか、誰よりも大きな場所を占めてしまった存在が許せない。
しかも三郎を泣かせたではないか。氏照はぐっと拳を握り締めた。

人質生活の故か、北条に戻っても三郎は、わがままを言わない子供だった。
おとなしいというのではない。
ただ、他人が苦しむ姿を見るよりは、自分が苦しい方が楽だと思ってしまうらしい。
それでいて、憐れみや同情など無用だと言わんばかりに、まっすぐ前を見つめる瞳は、いつも強い輝きを放っていた。
穏やかな物腰の奥にある強さ。
氏照は、そんな三郎が愛しくてたまらなかった。

弓を引く手、笛の吹き方。
共に過ごした時間は、到底長いとは言えない。
けれど、自分の中で一番大切なものを渡してやれた。
離れていても、心は共にあると思っていた。
しかし今、三郎の心と共にあるのは、この直江なのだ。
もう自分の手は要らないのだ。

そんな言い知れない寂しさに囚われていた氏照は、ふと直江の手に目を止めた。
あまりに強く握り締めて、白くなった手が、小刻みに震えている。
そのまま上に視線をやると、直江の額に汗が浮かんでいた。
必死にこちらを見る瞳には、焦りが見えた。

「どうした、直江? 急ぎの用でもあるのか。」
思わず口にすると、直江は困ったような顔をして、
「いえ、そういうわけでは…」
そう言って俯いたとき、くちびるが「高耶さん」と動いたのを、氏照は見逃さなかった。

 その瞬間、不思議な親近感が生まれた。
(この男も不安なのか?)
氏照から見れば、不安など何もないはずだ。だが直江にとっては、不安なのだ。
(自分がどれほど思われているか、わかっていないのか?)

 愛情が強ければ強いほど、喪うことへの不安は大きくなる。
自分でも持て余すほどの思いを、相手がずっと受け入れていてくれるか、心配になってしまう。
愛することに夢中で、どのくらい愛されているかなんて、冷静に見極められない。
そんな経験は氏照にもあった。

 どんなに愛しても心の奥から涌き出る思いに満たない。一時も離れたくない。
言葉でも体でも伝えきれないほどに愛しているのだと、直江の全てが物語っている。
 考えてみれば、二人が一緒に暮らすことなど、氏照の許しを得るまでも無いことだ。
それなのにこんな苦しい思いをしてまで、ここに座っているのは、高耶を思うからなのだ。

 氏照の顔に、ふいに笑が浮かんだ。
「そなたには参った。直江信綱。」
「は?」
驚いて呆気にとられている直江を、まっすぐに見つめた。
「三郎をよろしく頼む。」
「はい。氏照殿。」
しっかりと答えた直江の言葉をかみ締めるように、氏照は深く頷いた。

「三郎は海か。」
玄関まで見送りに出た氏照が言った。
「ええ。」
早く迎えに行きたくて、直江はいつもの落ち着きを無くしている。
もう日暮れが、すぐそこまで来ていた。
「少しだけ、海で待っていてもらえぬか。三郎に渡したいものがあるのだ。」
「もちろんお待ちしますが…。」
高耶を迎えに行って、今度は一緒に戻ってくるつもりだから、と言う直江に、
「いや、海で渡したいのだ。すぐに参る。」
そう言うと、「早く行け」と直江を送り出した。
 玄関を出ると、ほとんど走るようにして、直江は高耶の元に急いだ。

「高耶さん!」
 砂浜に座り込んで、高耶はじっと波を見ていたが、直江の声に気付いて立ち上がると、こちらを見て嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔に胸が熱くなって、直江は言葉も無く高耶を抱きしめた。
「ばっかやろう。いきなり何すんだ。」
赤くなってもがく高耶を、更に強く抱きしめて、柔らかい髪に頬を埋めると、ぬくもりが体一杯に染みてくる。
直江はやがて静かに耳元で囁いた。
「氏照殿が、あなたを頼むと言って下さいましたよ。」
「ああ。」
高耶は微笑んで目を閉じた。
そっと直江の背に腕を廻すと、広い背中を両手で抱いた。

「兄上がオレに、渡したいもの?」
わざわざ海で渡したいものとは、一体なんだろう?
ふたりで堤防に腰掛けて、海を見ながら待つ。
遥か沖をタンカーがゆく。うすく闇が広がる空には、あかね雲がなびいていた。
聞き覚えのある笛の音に、高耶がハッとして立ちあがった。
「兄上!」
視線の先に、氏照が笛を奏でながら歩いてくるのが見えた。
「三郎、覚えているか? 浜辺で笛の稽古をよくしたものだ。」
この体では、なかなか上手く吹けぬが…と言いながら、氏照は笛をもうひとつ出した。

「そなたにこれを、渡そうと思うてな。」
手渡された笛は、もちろん昔のものではなかったが、よく使い込まれた美しい横笛だった。
氏照の奏でていた笛と、同じ装飾が施されている。対でこしらえた物らしかった。
「そなたと会えたら渡そうと思って、ずっと持っていた。」
何年も前から、こうして渡せる日を楽しみに、待っていてくれたのだ。
上杉の夜叉衆として、敵となって戦うだろうとわかっていたときも、ずっと。

「ありがとう。兄上。」
万感の思いが込み上げて、それ以上なにも言えなかった。
「吹けるか?三郎。ゆっくりでよいから、吹いてみなさい。」
始めは鳴らなかった。
何度もやってみるうちに、遠い記憶が呼び覚まされてくる。
つっかえながらも、旋律がひとつ吹けた。
隣で黙って見つめていた直江が、ほっとしたように小さく息をついた。

懸命に吹こうとする高耶を見ながら、自分まで息を詰めていた直江は、氏照も同じように息をついたことに気付いて、暖かい気持ちになった。
高耶の笛に合わせて、氏照が笛を吹く。
ふたりの吹く笛の音は、暖かい優しい調べとなって、海を渡る風のように、月の輝く夜を高く低く流れていった。

アマデウスに戻る
TOPに戻る