『夏月夜』

 

その日、バイトが終わって外に出ると、
一台の車が追う様に走ってきて、スッと止まった。
直江の車だ。

「送りますよ。」
「お、サンキュ。」

助手席に乗り込む。
快調に走り出した車は、しばらくして家とは違う方向へ曲がった。
どうやら直江の家でもない。

どこへ行く気だ?

咎める視線に、直江は何も言わずに楽しげな微笑を返してくる。
そりゃまあ、俺だって今すぐ家に帰りたい…ってわけじゃねえけど…

なんて思ってしまうと、本当は責める気分じゃないのだが、
それでも一応きっちり睨んでおく。
直江の瞳が、微笑みの色を濃くした気がした。

やがて車は山道に入り、誰もいない展望台の脇に止まった。

 
「少し、歩きませんか?」

そう言ってドアロックを解いた直江が、こっちを向く。
ルームライトの下、束の間オレの顔を見つめた直江の眼差しに、
なぜか鼓動が速くなった。

外に出ると、じっとりとした熱気が纏わりつく。
展望台は既に閉まっていたが、
直江の行く先は別のところにあるようで、迷わず奥の小道を歩いてゆく。
街灯の無い道は、仄暗くて先が見えにくい。
ザクザクと土を踏む足音。
草の匂い。
高い木の梢を揺らして吹く風。
呼吸するたびに、体の中が夜の香気に満たされ、
研ぎ澄まされた耳が、心が、月明かりに浮かぶ直江の姿を追う。

直江だけを…

 

******

 
「高耶さん」

呼びかけた声に、高耶が顔を上げた。

今日は彼の誕生日だ。
この特別な日を、二人だけで祝おうと借りたログハウスまで、あと少し。
準備は万端。
彼の好きな料理も、冷えたシャンパンも、もちろんケーキも用意している。
ドアを開け、驚く彼に「誕生日おめでとうございます」と囁いて、
それから…

そう、頭の中では決めていた。
なのに…

「直江?」

訝しげに見つめる瞳さえ、
どうしてこんなにも心を震わせるのだろう?
いつもそうだ。
目が合うだけで、ただ傍にいるだけで、
理性で装い隠そうとする思いなど、たちまち剥がれて消し飛んでしまう。

大丈夫か?と、問いかけるように伸ばされた手を、
包み込むように掴んで引き寄せ、抱きしめた。

強く、強く、鼓動がひとつに感じられるまで抱きしめて、
それでも足りなくて、貪るように口づけた。

「ん…っ…な…ハァ…ッ」

苦しげな息を吐いて、高耶が掴まれていた手を解き、
直江の背を撫でて、そっと首を抱いた。

「た…かやさん…」

「はなす…な…。いい…から、はなす…なよ…」

切れ切れに、高耶の声が甘く囁く。

話すな、なのか

離すな…なのか…

直江には、わからなかった。

ただ求めあうままに、深く舌を絡めあい、互いの吐息を吸い取って、
やがて二人は、抱き合ったまま、ゆっくりと唇を外した。

肩に触れる息の熱さが、腕の中で脈打っている温かな身体が、
たまらなく胸を締め付ける。

生きている。
今、この時を共に生きている。
そんな当たり前のことが、まるで奇跡のように思えた。

「ありがとう…」

生まれてくれて、ありがとう。
ここに、この腕の中に、抱きしめている生命を
産み育んでくれた全てのことに、ありがとう。

湧き上がる思いは、言葉になど尽くせない。
それでも…

真摯な想いを込めて、感謝を告げた。
ゆるやかな風が、露を含んだ草を微かに揺らして、山の端を吹き渡ってゆく。

見上げれば、流れる雲を蒼く染め、月が白い光を放っている。
その光は、直江の想いを映すように、愛しい人の髪に身体に、優しく降り注いでいた。

       2010年7月23日

 
 

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