クレセントムーン

 

きらめく光。抜けるような青空の下、四万十川の川辺を直江はひとり歩いていた。
黒のサバイバルスーツは、今日の天気には暑過ぎる。それでも直江の額には、汗ひとつなかった。慣れているからなのか、彼の表情は暑さも感じていないように思える。
ふと直江の視線が、沈下橋の中程の人影に向けられた。とたんに彼はその場に釘漬けになってしまった。端正な顔に動揺が広がってゆく。視線の先には高耶がいた。
橋の上にいるのは、高耶だけではなかった。彼の隣には兵頭が立っている。
たぶんなにかの打ち合わせをしているのだろう。マップらしきものを手に、真剣に話す二人の距離の近さが、直江の胸に熱い痛みを生んだ。

高耶が兵頭を信頼していることは、一目見たときからすぐにわかっていた。
けれど今日の二人はなんだかいつもと違う。単なる補佐以上に、心の通い合うものが感じられた。
自分が高耶のもとを離れている間に、彼らはこんなに深い絆を育んだのだろうか。
いつも誰より一番近くにいたいのに、ここでその地位を掴むのは、思いのほか難しい。
焦りにも似た思いが直江をせかす。

その時、イヤになるほど聞きなれた声がした。
「いつまでもぐずぐずしていると、大事な景虎殿を横から浚っていかれるぞ、直江。それとも体の関係があれば、他はどうでもよいというのかな?」
振り向かなくても、妖艶な赤い唇が嘲笑に歪んでいるのがわかる。腹立たしさで答える気にもならない。
「久方ぶりだというのに、相変わらずつれない奴だな。」
そう言って隣に並んだのは、予想通り長い黒髪も艶やかな高坂だ。
直江は横目でちらりと見ただけだ。不機嫌な表情のままで
「お前の方こそ、こんなところで何をしている。何をたくらんでいるんだ。」
高坂は涼やかに笑うと、
「別に何も。赤い目の虎を見ておこうと思っただけの事。それより、いいのか直江。あの男と景虎殿は、随分気が合っているようだが。」
いかにも楽しげな様子である。いつもこうしてあおって楽しんでいるのはわかっているのだが、的を射た言葉が神経を逆撫でして、直江は拳を白くなるほど握り締めたまま、ポーカーフェイスを保つのが精一杯だった。

橋の上の二人は、ほとんど顔を突き合わせるようにして話している。
燃えるような眼差しで見つめる直江を、高坂は冷ややかな中に憐れみと痛みのまじった目で見つめていた。
震える足でやっと一歩を踏み出して、高耶のもとへ近づいていく。すぐそこのはずなのに、なんと遠く感じられる事か。いつまでも辿り着けないような気がする。
それでもやっと後2メートルというところまで来た時、高耶の足元に黒豹が現れた。
はっとする直江と、黒豹の小太郎の視線が合った。小太郎はすっと視線をはずすと、高耶の足に頭を摺り寄せた。
「小太郎、どうしたんだ?」
訝しげに眉を寄せた高耶だったが、そのうちかがんで小太郎の頭を撫でると、嬉しそうに喉を鳴らす小太郎に、思わず笑顔を見せた。直江がずっと見たくてたまらなかった、あの不器用なそれでいて温かいあの笑顔を。
それを側で見守る兵頭も、穏やかな表情をしていた。直江がいなくても高耶は幸せなのだと、そう言われている気がした。

「そうだよ。あなたと会わなければ、高耶は幸せになれたんだ。」
譲がそこにいた。いつのまにか譲も美弥も、長秀や晴家、色部までが高耶の側で微笑んでいる。高耶はまるで直江が見えていないかのように、懐かしいあの笑顔で、幸せそうに笑っていた。
あなたは俺がいなければ、そうやって笑っていられたのだろうか?
それは、高耶を傷つけるたびに、何度も胸をよぎった問いだった。
俺の思いはあなたを傷つけるだけだ、そう思って心を殺した。でもそれは間違いだった。
あの萩城で、初めてわかった。俺達の最上を、あなたが望んでくれたあの時に。
だからこれは違う。これは俺の弱さが見せる幻だ。現実じゃない。

高耶はたとえ自分の愛する人達に囲まれていても、闇戦国をそのままにして知らぬ顔で幸せになれる人間ではない。それは直江が一番よくわかっていることだった。
彼は今のままでは幸せになれない。そう、俺がいても、それだけでは幸せにはなれないのだと。それが高耶という人間なのだ。
他人の苦しみなど知らないと突き放しても、そのまま忘れてしまう事が彼にはできない。
理不尽に踏みつけにされる者を、見捨てることなどできない。
そのせいで彼自身がどうなろうと、かまわず行動してしまう。
運命に屈服しない、限りなく強く純粋な誇り高い魂。
それこそが最後の最後で直江の願いを打ち砕く、一番大切で一番大きな障害なのだ。

愛する人達に囲まれて笑う高耶の姿は、直江の胸に重い痛みを残したまま消えていく。
目覚めたら、また別のもっと大きな苦しみが直江を襲う。存在そのものを失う予感。
それでも、目覚めたいと直江は願った。どれほどの苦しみでも、現実を生きる。
幻じゃないあなたを抱きしめる為に。
誰よりもあなたを求めているのは俺だと、何度でもあなたに刻み込む為に。

直江が目を覚ましたのは、まだ夜も明けきらない頃だった。白い三日月が空にあった。
なぜともなく、高耶がこの月を見ているような気がして、直江は外に出た。
夢の中と同じ様に、四万十川のほとりを歩く。橋を見て直江は目を見張った。
高耶がひとりで沈下橋に座っていた。
彼はよくここに来る。直江はここで風に吹かれている高耶を見ると、いつも彼がそのまま自然の中に溶け込んで消えてしまいそうな気がした。
光の粒子になって、きらきら輝きながら空に昇ってしまうようで、直江はその度に、抱きしめて繋ぎとめたい衝動に駆られた。
抱きしめていてもなお、この手から飛び去ってゆきそうな不安は消えないのに。

思うより先に体が走っていた。夢がまだ生々しい痛みをはらんでいる。
息を弾ませながら、直江は崩れるように背中から高耶を抱きしめた。驚く高耶の耳元でささやいた。
「このままで。高耶さん。しばらくこのままでいさせてください。」
抱きしめて目を瞑る。高耶の体温を感じながら現実を抱きしめる。
腕の中でじっとしていた高耶が、ほんの少し身じろぎした。髪の香りが夜の冴えた空気に混じる。
直江は高耶の顎に手をかけると、そっと唇を重ねた。柔らかい感触と触れた吐息が命を感じさせた。
生きている。その命をもっと感じたくて、もう一度深くくちづけた。舌をからませ求め合う。
次第に熱くなってゆく思いに身を委ねると、もう止まらなかった。

そのまま覆い被さるようにして倒れこむと、思いきり唇を貪った。
息が苦しくなってやっと唇を離すと、高耶が直江を見つめてふいに微笑んだ。懐かしい、胸が熱くなるその笑顔を、どれだけ見たいと願っただろう。
「なんだかお前、子供みたいだ。」
高耶は幸せそうに笑っている。その髪をかきあげて額にキスすると、
「子供はあなたの方だったはずなのに。俺が子供じゃ可笑しいですよね。」
そう言って直江も微笑んだ。自分は本当に、まるで子供だと思った。
こんなに長く生きてきたのに、いつまでたっても俺は諦めも妥協も覚えられない。
でもそれでいい。あなたと一緒に生きるには、諦めも妥協も要らない。
もう大人の振りなんか必要無い。ありのまま、ただあなたを思う気持ちだけが俺の全てなのだから。

「直江」
呼びかけた高耶の瞳をまっすぐ見つめた。美しい赤い瞳を覗き込むと、彼は脅えるように瞳をそらした。
直江の体を傷つけることを恐れて、壺毒薬を飲んでいても瞳を永くは合わさない。そんな高耶が痛ましくて、なおさらその瞳を見つめたくなる。
高耶の首筋に、背中に、腰に、指を這わせて、高耶の瞳に目線を合わせたまま唇を重ねる。
直江の愛撫に追い上げられて潤んだ瞳は、命を引き換えにしても後悔しないほど美しい。
快感に喘ぐ息遣いも、直江の背中に廻した腕も、他の誰にも渡さない。
俺だけのものだと、世界に公言してやりたい。
昼間の高耶が、今空海と呼ばれる通り、遍照金剛(あまねく光で照らす者)だとしても、今その輝きを一身に受けているのは自分だけなのだ。

彼の命の熱さに、体中が震えるほどの感動が身を貫く。
彼さえいれば他になにも要らない。彼の為に世界を滅ぼしても俺は後悔なんてしない。
けれどもし、俺がそうしてしまったら、きっと彼はその瞬間に自分自身を責めて壊れてしまうだろう。
罪を背負うことなどなんでもない。怖いのは彼を失うことだ。考える事すら出来ない。
こうして腕の中にしっかりと抱きしめて、体ごと繋がっていても、もっと深く繋がっていたいと願う。
片時も離さずにいたい。彼を求めて苦しみ続けた長い年月、ずっと触れる事もかなわず、それでも彼だけを追い求めてきた。今は彼の体で知らないところなどないくらい、何度も肌を重ねている。
なのに心も体も、それまで以上に彼を求めているのだ。
知れば知るほど、もっと惹かれていく。底無しだ。
これほどの思いが自分の内にあったことを、今になって知る。
俺からあなたをとったら、かけらひとつ残らないだろう。

溢れる思いのままに全てを注げば、激しさに苦悶しながら、高耶も全身でそれを受けとめる。
直江の肩越しに、白い月が見えた。冴えた中に優しさを感じさせる光が、直江のようだと、高耶は陶酔にかすむ頭でぼんやり思った。
月は太陽の光を自分の色に染め上げて、自分の輝きに変える。太陽とは違う。けれど心に染みる美しいその光は、けっして太陽に見劣りするものではない。
魂を揺さぶる輝き。暗闇を照らす光。天空のあまたの星が、月が近づくと輝きを失うのは、星以上に月が輝いているからだという事に、直江は気付いているのだろうか。
お前の命の輝きがどれほど美しいか、きっとお前は知らない。それをもっと感じていたいと願う。
この魂が尽きるときまで、ずっと。もっと。もっと。
まだだ、まだ足りない。もっとオレにぶつけてくれ。お前の思いを、お前の命を。

貪るように求めて堕ちていく。
何も考えられなくなるこの瞬間に、ふたつの魂が融けあって命の歌を奏でる。
歌は風になって川を渡り、やがて大気に混じって消えていく。
空が白んでいくのを、二人は橋の上で並んで立ち、風に吹かれながら静かに見ていた。
ここから日の出は見えない。けれど確実に夜は明け、新しい朝が来る。
朝を迎えるたびに魂の終りが近づいているとしても、この先に待つものが何であろうとも、高耶は前に歩き続ける。
終りに向って生きるなら、生きる意味は無い。道なき道の、その先をめざす。
挑むように前を見据える高耶を、直江はじっと見つめていた。
魂核を救う方法は必ずある。必ず見つける。
それぞれに切実な願いを抱いて生きる二人に、未来は見えない。

 

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