松本にて

奈良、和歌山から帰った翌日、綾子への連絡を兼ねて、直江と千秋は居酒屋に来ていた。
高耶は来ない。ずっと留守にしていたので、美弥と一緒に居てやりたいからと、今日は家にいることにしたのだ。
「随分色々あったみたいね。佐々成政のこともあるし、織田の動きが気になるわ。」
ひと通り話を聞いた後、綾子が言った。
「そうだな。やはり闇戦国の動きは、予想以上に活発になっているようだ。軒猿達の情報網も、もっと強化しないといけないだろう。」
「景虎の奴も、力が使えるようになってきたけど、まだまだ頼んないからなあ。やっぱ記憶が戻らないと、きついよな。」
綾子が目配せしているのを、思いっきり無視して、千秋がさらりと言った。
千秋の目は、直江に向けられている。直江は、苦しげに瞳をそっと伏せた。

景虎の記憶を戻さなければならないとわかっていても、それは直江にとって耐えがたいほどに大きな試練であった。
思い出したら、あの人は俺を許さないだろう。あの笑顔を向けてくれることは、ない。
そう思うだけで、胸に刃を突き立てられるような、いやそれすら生易しい、例えようの無い痛みが、直江を責める。高耶と会ってから、尚更苦しみは増していた。
失いたくない。その思いが強くなるほど、痛みも増していく。それでも高耶と共に居ずにはいられない。思いは日々大きくなり、いつか堰を切って溢れ出す予感がしていた。

「ずるいわよ!」
綾子の声にはっと現実に戻った直江は、まじまじと彼女を見た。目が据わっている。
千秋が(まずいぞ)と目で合図した。酔っ払った綾子は、始末に負えない。
「あたしだって、景虎とキャンプしたい〜!」
「あたしが地道に怨霊調伏してる時に、あんた達だけいい思いしちゃってさ。」
綾子がぷんぷんしているのを、はいはいといなしながら、千秋が直江に言った。
「ところで景虎とは、あの後進展したんだろうな?島探る時、せっかくふたりっきりにしてやったんだからな。」
「えっ、何々?あの後って?」
「なんでもない!何にもないに決まってるだろう!」
「なあんだ、お前もいざとなると、気弱だよなあ。さっさとやっちまえばいいのにさ。」
誰のせいでダメになったと思ってるんだ…
と言いたい気持ちを腹の中に納めて、話題を変えようと
「長秀、学校の方はどうなんだ。あれから、変わった事は起きてないか?」
と言った直江に、憐れみのまなざしで千秋が答えた。
「あのなあ、俺達は昨日帰ってきたばっかだぞ。まだガッコなんか行ってねえっての。」
 そういえばそうだった。動揺がバレバレだ。

「でもさあ、今度の景虎ってかわいいよねえ。怒るとすぐ顔に出るし、譲くんと一緒の時なんか、ホントに普通の高校生だよ。あのいつも冷静沈着だった景虎がさ、記憶がないとこんなにかわいいんだなあって…。う〜ん、母性本能刺激されちゃう。」
綾子は夢見るような顔で、フフフと嬉しそうに笑っている。
「手え出すんじゃねえぞ、あれは俺のおもちゃなんだからな。」
千秋が偉そうに言う。
「何よお、あんたのって勝手に決めないでよ。大体、あんただけ一緒に高校生して、ずるい。」
「お前の歳で、高校生は無理だろが!」
「うるさあい。お姉さんが可愛がってあげんのお。長秀のばかあ。」
ぎゃあぎゃあ言っている二人に手を妬きながらも、直江は微笑ましくなった。暖かい気分で、グラスを片手にふと入り口に視線を向けた直江は、思わず目を見張った。

「高耶さん!」
高耶と譲、それに美弥まで一緒だ。
「美弥ちゃーん」と千秋が手を振っている。
嬉しそうに近づく美弥の前に割り込んで、高耶は千秋を睨んだ。
「美弥に近づくんじゃねえ」
「お兄ちゃんったら、千秋さんに失礼でしょ」
譲はおかしそうに横で笑っている。
「あのね、美弥、皆さんにお礼を言いたくて。いつもお兄ちゃんがお世話になってます。ふつつかな兄ですが、どうぞよろしくお願いします。」
美弥は丁寧に頭を下げてから、ぴょこんと顔を上げてにっこり笑った。
「美弥ちゃん、かわいい!」
綾子がぎゅっと抱きしめて頭を撫でた。
「おいおい、やりすぎだって」
美弥はくすぐったそうに首をすくめて笑っている。譲は千秋に旅の話を聞いているようだ。
呆れた顔で見ていた高耶だったが、自分を見つめる直江に気付くと、少し照れたような笑顔を向けた。

「美弥が行きたいって言うんで、ちょっとだけな。」
うつむいてぼそぼそ言っているのがおかしくて、くすっと直江が笑みをこぼすと、
「そういえば俺、お前が爆笑してるとこってみたことねえな。」
高耶がまっすぐ直江の目をみつめて、
「お前の思いっきり笑った顔、見てみたいな。」と微笑んだ。
直江が真っ赤になった。
思わぬ反応に、高耶は自分の言葉を思い返して赤面した。これってまるで告白?
「ふ、深い意味はないからな」
焦って言い訳しながら、胸はどきどきしている。何焦ってんだ俺は!
直江も自分自身の反応に驚いていた。
長い間忘れていた感情が、彼といると泉のように溢れてくる。
笑う事も驚く事も、彼と再会するまでの自分は、生きていなかったのだと改めて思い知る。そして胸の痛みも息を吹き返す。

早鐘を打つ心臓をどうにか落ち着けて、直江はまだ赤い顔のままで
「すみません、ちょっと驚いただけですから」
と言ってから、いたずらっぽく
「あなたがそんなことを言ってくれるなんて、嬉しいですよ。」と微笑んだ。
今度は高耶が耳まで赤くなった。
「お前ってホントに恥ずかしいこと平気でいうよな」
「始めに言ったのは誰でしょうね。」
高耶は赤くなったまま知らぬふりをして、譲や千秋達の会話を聞いたり、綾子の酒につきあったりした後、
「美弥、そろそろ帰るぞ」
高耶が立ちあがった。

「えっもう帰るの?まだ居たいよお」
「高耶さん、まだいいでしょう、もう少しだけでも。」
直江は高耶の腕を掴んだ。高耶の体温が伝わってくる。直江はそのまま離さなかった。
彼の肌を筋肉の感触を、ただ感じていたかった、離したくなかった。
けれど離さなければならない。ずっとそうさせてくれるほど、彼は甘くなかった。

「帰る。」
そう言うと、彼は直江の手を離れた。
「じゃあ行こうか。」
譲が言って、高耶と並ぶ。今彼の心の隣にいるのは譲なのだ。彼を癒すのは自分ではない。例えようの無い思いを抱えたまま、直江は二人を見つめていた。
「今度はあたしもキャンプに混ぜてよね」
綾子が明るく言った。千秋は明日の学校の用意を話している。
なんの変哲も無い、ごく普通の日常。その影で闇戦国は激化している。
綾子も千秋も、直江もそれをわかっていて、決して表に出さない。今生を精一杯生きる彼らを守る為に、自分たちがどれほどの思いを抱えていても。
そうして、高耶もその戦いの中に入ってゆく。彼にとって本当はどちらが幸せなのか。それでも選択の余地は無い。

店を出ると、少し肌寒い風が吹いていた。
高耶は、譲と美弥と一緒に歩いていく。
彼の大切な今を奪っていくのは、自分なのか。四百年前、御館の乱で奪ってしまったように、記憶を無くして生き直そうとする景虎を闇戦国に引き戻し、高耶としての普通の人生を奪っていくのか。
煌煌と照る月を見上げ、どうかこの先の彼を守ってくれと祈るしかない直江だった。

 

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