『小さな魔法』

  

「高耶さん。」
少し先で直江が呼んでいる。
「ほら、紫陽花が咲いていますよ。」
どんよりとした曇り空。もうすぐ梅雨に入るのだろう。
雨が降るのを待つように、つぼみ混じりの青い花が空を見上げていた。
「今年は咲くのが早いな。」
「ええ。梅雨入りも早いかもしれませんね。」

直江と歩いていると、花や空気に季節の移り変わりを感じる。
この男の持つ独特な雰囲気が、そうさせるのだろうか。
まるで時間の流れが、彼の周りでは違っているかのようだ。
直江といる時だけ、ゆっくりと静かに流れる時間がある。
ふたりでいると、なにもかもが色を変えてゆく。

この街はこんなに美しかっただろうか。
この世界には、いつからこんなに生命が輝いていたのだろう。

「高耶さん。」
直江の声が暖かく沁みてくる。
もう一回聴きたくて、聞こえないふりをした。
「高耶さん?」
直江が顔を覗き込む。
見るなよ。照れるじゃねえか。

「雨だ。」
ぽつりとひとつぶ落ちてきた雫に、空を見上げて直江の視線をかわす。
「降ってきそうですね。」
そう言うと、自然な仕草で俺の体に手を廻した。
俺が濡れないようにって思ってんのか?
誰もいないからいいものの、
こいつの場合、人が見てても気にしないから時々困る。

「大丈夫だって。濡れたって平気だ。」
腕を擦り抜けようとしたら、直江が急に力を加えた。
「大丈夫じゃありません。」
しっかりと抱きしめて、耳元で囁く。
ばかやろう。そんなことしたら、動けなくなっちまうだろう。

「離せよ。んなとこでなにやってんだ。」
ぐっと睨みつけると、直江が嬉しそうに微笑んだ。
「やっとこっちを向いた。」
こいつ、わざと…!
むっとして横を向こうとすると、
「ダメですよ。動かないで。」

頬に手を添えると、じっと瞳を見つめて唇を近づける。
琥珀の瞳に呪縛される。
熱いまなざしから、もう逃れられない。
唇が重なった瞬間、胸の奥から熱い思いが湧きあがった。
直江の背中にそっと腕を廻した。
誰が見ていてもかまわない。
このままずっとこうしていたい。
お前のぬくもりを、お前の熱を感じていたい。

「もう耐えられない。」
直江が苦しげな溜息と共に呟いた。
「直江?」
どうしたんだ? どこか苦しいのか?
ぽつり、ぽつりと降っていた雨が、だんだん速度を増してきた。

突然直江が高耶を抱きかかえた。
「な、なにすんだ! 降ろせ、ばか!」
思わず手を突っ張って、降りようとしたのに、
「暴れないで下さい。今すぐ帰るんです。」
直江はそのまま走り出した。

「待てって! そんな慌てなくても、こんな雨くらいどうってことねえだろ。」
「雨はいいんです。でも我慢できない。早くあなたを抱きしめたい。」
真剣な顔で走る直江が、なんだか可笑しくて、嬉しくて笑ってしまう。
「降ろせよ。俺も走るから。」
直江にしがみついて、耳に唇を寄せて言った。

足を止めて驚いた顔で見つめる直江の腕から降り立つと、
「帰ったら覚悟しろよ。」
口に出してから、恥ずかしさで顔から火が出そうになった。
ようやく言葉の意味に気付いた直江が、本当に嬉しそうに微笑んだ。

雨のつぶが雲から地上に落ちるより速く走ろう。
競うように走る一歩ずつが、この欲望を増していく。
速く。もっと速く。お前を感じたい。

「高耶さん。」
直江が嬉しそうに呼ぶ。
それはまるで魔法の呪文だ。
そうして俺の中の扉が開かれる。
お前だけが、俺の知らない本当の俺を見る。
お前だけに開かれる扉を開いて…。

 

自分では、やっと書けたラブストーリーだと思ってます。
あなたにも、ひとときの魔法・・かかって欲しいな〜(^^)

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