『小糠雨』

 

密やかな雨の音…

梅雨の時期となれば、さして珍しくもない音が、今日に限って耳につく。
直江は仮の宿にしている炭焼小屋の窓から、小雨の降り出した外を眺めて、不機嫌に眉を寄せた。

景虎が晴家と町に出たのは、怨霊が出るという噂の屋敷を探る為だった。
ちょうど雨漏りの修理をするとかで、力自慢の晴家と身の軽い景虎が、手伝いの振りをして屋敷に入り、霊査する事になったのだ。

手伝いと言っても、まさか屋根には登るまい。
…とは思ったものの、景虎のことだ。
良い機会とばかりに、屋根瓦の上に乗っているのでは無かろうか。

濡れた瓦は滑りやすい。
晴家では止めても聞かぬし、やはり自分が一緒に行けば…

不安は刻々と募るばかり。
とうとう直江は、立ち上がって窓の格子に張り付いた。

「落ち着け。幾度も見たとて変わらぬ。」
積み上げた木の束に凭れ、だらんと足を伸ばした長秀が、欠伸しながら言葉を掛けた。

苛々するのは、この男と二人きりでいるせいもある。
直江はギリッと奥歯を噛んだ。眉間の皺が益々深くなった。

「まあ、どうでも良いがな。夜になって戻らねば、様子を見に行くだけのこと。
 その時になって泣こうが喚こうが、おぬしの勝手だ。」

言い捨てて、また目を閉じる。
直江の顔に朱が走った。

不真面目に見えても、この男は歴戦の武人。
そのうえ調伏力は景虎に匹敵する凄さ…

脳裏に蘇った鮮烈な光景が、直江の胸をキリリと締め付けた。

 俺は何を望んでいる?
 あの力か…?

それだけではない。と告げる心に、直江は再び眉根を寄せて、長秀の隣にうずくまった。
狭い小屋だ。
どうせ避けていられる場所もない。

不意にククッと横から声が聞こえた。
「その仏頂面、おぬしも意外に見ていて飽きぬ男だな。」
寝ていると思えば、いつの間にやら、薄目を開けて笑っている。
憤慨して腰を上げたとたん、ゴトゴト鈍い音を立てて、建て付けの悪い戸が開いた。

「景虎さま!」
思わず声を掛けた直江の顔を見て、長秀は可笑しそうに目の端で笑った。

 
「怨霊は? 小雨とはいえ急に降り出して大変だったのでは…」

「うむ、念の澱みはあったが、もう済んだ。心配いらぬ。」

手拭いを渡し、たらいで泥だらけの足を洗ってやりながら、直江は景虎の顔を見上げた。

何か変だ。
この表情…隠し事?
追及されると困る事でもしてきたような…

訝しむ直江に、景虎はサッと自分で足を拭うと、長秀から少し離れて腰を下ろした。

 
 

「晴家。何があった?」
夕餉の支度をするからと、晴家を小屋の裏に連れ出して尋ねた。
軒から雨の雫が滴る。
晴家は大きな体を縮こめて、小さな声で一部始終を語った。

「やはり…っ!」
くうっと拳を握った直江に、無事だったのだから何も言うな、と晴家が念を押す。

もちろん言わぬ。
言わぬが…

雨の降る中、止めるのも聞かず屋根に登って屋敷に隠る念を浄化し、
下りる途中に瓦で足を滑らせて、晴家に助けられるとは何事か!

もし晴家の腕が間に合わなかったら、今頃どうなっていたことか…

ふるふると拳を震わせ、直江は手にした葱を、ブチッと裂いて鍋に放り込んだ。

 
なんだか険悪な顔の直江と、苦笑いする晴家、真面目な顔で汁を啜る景虎を見比べて、
長秀は妙な切り口の葱をつまみ上げ、ヤレヤレと呟いて汁かけ飯を掻き込んだ。

宵闇に包まれてゆく山は、まだ糠のような細かい雨が降っている。
けれどもう、その音は直江の耳に届かない。
温かな夕餉の匂いが、炭焼小屋を満たしていた。

 

2008年6月8日

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