「おはよう、美弥ちゃん。今朝もかわいいな〜」
挨拶している声に、高耶は驚いて玄関に飛んでいった。
「千秋! 朝っぱらからどうしたんだ?」
よう。と軽く右手を上げて、千秋は曖昧な笑顔を浮かべた。
「……お袋さんから電話あったろ? そのう…迎えに来たんだ。」
あっけにとられて、ぽかんと問いかけた。
「はぁ? おまえが? おまえ…母さんのこと知ってたっけ?」
「いいから。とにかく早くしろ。飛行機に乗り遅れちまう!」
大慌てで言いながら、千秋は高耶を急き立てて車に乗り込んだ。
「どうなってんだ。昨日はそんな事なんにも言ってなかったじゃねえか。」
「まあな。いろいろあってさ。罪滅ぼしっつうか…。空港まで送ってやっから、あとは向うで聞いてくれ。」
そう言うと、なにを訊いても答えない。
「向うに行けばわかる。」の一点張りだ。
「むこうってどこだよ。ったく何がどうなってんだか…。」
だんだん、どうにでもしろって気になってくる。
はぁ…と溜息をついて、高耶はシートにもたれて目を閉じた。
空港に着くと、千秋は航空券を手渡した。
「これ…千歳?!」
驚く高耶を見て満足そうに笑うと、
「じゃあな。文句があるなら奴に言えよ。」
そう言って手を振った。
どうなっているのか全然わからない。
直江と母。母と千秋。
いったいどんな繋がりなんだ?
わけがわからない。
けれどひとつだけ確かなことがあった。
行けば直江に会える。
(直江は女と一緒に北海道に行ってる)
昨日の千秋の言葉が頭を掠めた。
それでもいい。
会えばきっとわかる。
おまえの真意が。そして俺の心も。
千歳のロビーに、直江は立っていた。
姿が見えないうちから、ほんの少しも違うことなく、直江は高耶を見つめていた。
目が合った瞬間、ふたりの距離は無くなった。
女と一緒のはずなのに、なぜひとりなのか。とか、
なぜ母から電話があったのか。とか、
こんなところで何をしているのか。とか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
今、ここにいる。
おまえと俺が。
それだけで、もう他になにもいらない。
理由も。いいわけも。なんにもいらない。
横に立って、直江の手が高耶の手に触れた。
「あなたに見せたいものがあるんです。」
手の温もりと声に、深い安堵を感じたとたん、もやもやした感情が吹き出した。
「おまえ…ンなとこでなにやってんだよ。」
思いきり不機嫌な声で言った。
「女と一緒なんじゃなかったのか? そんなとこに俺を呼んでどうすんだよ。」
こんなことを言いたいんじゃない。
会えてよかったって言いたいのに。
もう俺の側から離れるなって言いたいだけなのに。
それなのに、言葉は止まらなかった。
本当に言いたいことをひとつも言えないまま、言いたくない言葉ばかりが出る。
情けなくて泣きたくなる。
顔を背けて俯いた。
こんな嫌な俺を見ないでくれ!
「すみませんでした。」
直江の言葉に、高耶は思わず顔を上げた。
「どうしてもあなたに見せたいものがあって、あなたのお母さんにお会いしたんです。黙って勝手なことをして、すみませんでした。」
心からの誠実な言葉に、涙がこぼれそうになった。
違う。そんなこといいんだ。俺はもう怒ってなんかいない。
そう言いたかった。けれど言葉にならなくて…。
言葉の代わりに、繋いだ手を握り返した。
そっと…それから心を込めて、ぎゅっと…。
直江が見せたいと言った場所は、千歳から随分離れていた。
どこまでも続く広い道を、雄大な景色を見ながら走る途中で、直江は今までのことを高耶に話した。
ずっと前に聞いた、高耶という名前の由来になった木を探そうと思い立った事。
その詳しい話を知りたくて、高耶の母、佐和子に会いに仙台に行ったこと。
ずいぶん前のことなので記憶も曖昧になり、場所がはっきりわからなくて、直江は北海道のあちこちをひとりで探し廻っていたのだ。
それをどうやら直江の母が勘違いしたらしい。
「北海道へ女の人と行っているようなんですよ。」
と言ったことから、おかしな誤解が生じた。
もっとも、その前に直江が無言電話などをしたから、高耶が不安になったのだが。
「昨日やっとその木を見つけたんです。私が自分であなたを迎えに行きたかったのですが、それだと間に合わないので…。長秀に頼もうと電話して、話を聞いてびっくりしました。」
実際のところ、びっくりなんてものでは無かった。
こんな誤解で高耶に嫌われたくない。冷や汗どころか脂汗が流れた。
せっかくの計画が、最悪の結果を招きそうだった。
どうしたらいいものかと考えたあげく、佐和子の力を借りることにしたのだ。
「おまえや千秋と母さんが、なんで繋がってるのか不思議だったんだ。特に千秋は母さんのこと知らないはずなのに…。」
「ああ、それは…佐和子さんには、私の代わりに迎えをやると言っただけなので。」
「なんだ、そうだったのか。すっげー変だって思ってたんだ。」
高耶が嬉しそうにしているのを、直江は満ち足りた気持ちで見ていた。
ずっとこうしていたい。
ここにいる。ただそれだけで幸せが満ちてくる。
やがて車は目的の場所に着いた。
「この木に間違いない…とは言えないのですが、なぜかこの木のように思えて。」
直江はそういうと、車から降りた。
大きなブナの木が、天に向けて手を伸ばしていた。
真っ黒な大地の上で、月の光が木を照らし、空には星が輝いていた。
ブナは林を成す。なのになぜかその木は、群れから一本だけ離れて立っていた。
太い幹。枝は美しい葉をたわわにつけて、大きく腕を広げている。
「高いなあ」
「美しいなあ」
その昔、両親が見上げたかもしれない木を見上げて、高耶は美しさに圧倒された。
昼間はまた違う表情を見せるのだろう。
四季折々に、そして一日のうちでも、表情を変え色を変える。
それでも、その本質は変わらない。
どんなときでも、この木はきっと、美しい命の輝きに満ちているのだ。
「素晴らしい名前を貰いましたね。」
「俺じゃない。俺が追い出した命が貰うはずだった名だ。」
「ええ。それでも、あなたのかけがえのない名前です。」
高耶の瞳をじっと見つめて、直江は繰り返した。
「その名で呼ばれて育ったのはあなたです。
だからあなたが貰った名前でもあるんですよ、高耶さん。
仰木高耶。大切なあなたの名前です。」
直江の声が、胸の奥底にまで深く届いて、暖かく響いた。
「仰木高耶。あなたが生まれてくれてよかった。」
「直江…。」
言葉では到底言い尽くせない思いを、精一杯に込めて名を呼ぶ。
あの風に廻るかざぐるまのように、心は揺れて色を変える。
けれど風が止めば元の色に戻ってゆくように。
くるくると廻る季節で印象を変える木も、変わらず命を育むように。
どれほどに心が色を変えても、この思いは変わらない。
愛している。
あなたを。 おまえを。
このかけがえのない存在を。
2004年7月。