二人だけの夜

「花火を見に来ませんか。」
 そう誘われて、高耶は東京に在る直江の長兄のマンションを訪れた。
ここに来るのは何度目だろう。そのたびに不思議な気持ちになる。
他人の部屋だというのになぜか落ち着く。居心地がよくて安心できる。そんな空気がこの部屋にはあるのだ。
 玄関についたとたん、まだ呼び鈴も押していないのに、ドアが開いて直江が顔を出した。

「高耶さん。来てくれたんですね。」
嬉しそうな笑顔に、ほっとして肩の力が抜けた。思った以上に神経を使っていたらしい。
「美弥のやつ、クラブの合宿と重なっちまって来れないんだ。」
せっかく誘ってもらったのに・・とすまなそうに言う高耶に、
「そうですか。残念ですがしかたないですね。」
瞳に浮かんだ落胆の色をすぐに打ち消して、直江は明るく笑った。

 高耶を招き入れた部屋には、海苔巻や稲荷寿司、オードブルなどが食卓いっぱいに用意され、今日をどれほど楽しみにしていたかがわかる。高耶の視線に気付いて、
「少し多すぎましたね。母がたくさん作ってくれたもので…。」
気にしないでいいんですよ。残ったらまた明日食べればいいですから。
などと言いながら、 直江は高耶をうながしてベランダに出た。

「このマンション、花火を見るにはいい場所なんですよ。」
直江が指差した方向には、隅田川が見える。
まだ昼間だというのに、すでに花火見物の場所獲りが始まっているらしく、人々が続々と集まってきていた。
「これからもっと増えるんだよな、見物客。」
今からこんなに人がいたら、始まる頃には身動きもできなくなりそうだ。

「ええ、毎年すごい人出らしいですね。」
「らしいですねって…。お前、いつも見てんじゃねえのか?」
「すみません、実はほとんど見た事がないんです。でもいい眺めらしいですよ。」
少し困ったように微笑んだ直江に返す言葉をなくして、高耶は黙って人の群れを見詰めた。

 東京は人が多い。松本とは比べものにもならない。
あの小さな街でいるときは、窒息しそうだと思っていた。
なにかするたびにうるさくいう大人たち。
誰も本当のことなど知ろうともしないで、噂やイメージで人の価値を勝手に決めてしまう。

あの街を出て、自分を知る人などいないところに行きたかった。
広い世界に行けば変われる気がした。
だがこの大都会に来ても、開放感なんて少しもない。
確かにここなら、家庭環境や過去を知る人はいない。
それぞれが時間に追われて忙しそうで、隣を歩く人間のことなど、誰もいちいち考えちゃいない。

それでいいのだ。他人のことまでかまう余裕など、オレにだってあるわけない。
気にされない分、楽じゃないか。
そう思うのに、どうして楽にならないんだろう。
身構えて心に壁をつくって、ガードしないといられない。
これではどこに行っても、松本にいるのと変わらない。

今までの自分ならば、人間なんてどうせそんなもんだ、と思っていた
傷つきたくないなら、はじめから気を許さなければいい。
優しさや愛情は束の間のもの、ずっと続くなんて期待してはいけないと、自分に言い聞かせて生きてきた。
なのに、直江と出会って、ガードを超えて一直線に心の奥に飛び込んでくるこの男に、
戸惑って苦しんで、それでも失いたくないという思いに気付いたとき、初めて自分の心と向き合った。

オレはどうしたいんだ。どうすればいいんだ。
全ての答えがオレの中にあるというのなら、それを自分で見つけるしかない。
心の奥を探って、景虎の記憶は少しずつ思い出してきたが、答えはまだ見つからない。

「高耶さん、お腹がすいたでしょう?お茶いれますから、こちらへどうぞ。」
はっとして振り返ったとたん、直江と目が合った。
「ああ、今行く。」
なにか問いかけるような眼差しになった直江だったが、
高耶は黙って目を伏せると、ベランダから離れた。

「茶よりビールにしろよ。」
「ダメです。未成年じゃないですか。」
 むうっと口を尖らせながら食卓についた高耶に、グラスを渡して冷えたビールを注ぐと、
「一杯だけですよ。」
自分もグラスにビールをついで、直江がいたずらっぽく笑った。

「んじゃ、乾杯!」
おいしそうにビールを飲むと、ぱくぱく食べ始める。
つられて直江もいつも以上によく食べた。
さすがに食べきるのは無理だったが、ビールも一杯で済むはずもなく、やがて二人は、満ち足りたお腹とほろ酔い気分を抱えて、ベランダで心地よい風に吹かれていた。

見下ろすと、人がぞくぞくと押し寄せて来ていた。
本当は、東京も松本も同じなのだ。
どれほど多くの人がいても、それぞれに抱えている思いは一人ずつ違う。
哀しみや辛さを抱えて、それでも必死に生きている。
今ここに花火を見に来ている人々も、様々な思いを持っているのだろう。
それがこうして、ひととき同じ花火を見る。
なんでもないことなのに、とても貴重に思えた。

「ちょっとの間だけど、綺麗だなってみんなが一緒に感じるんだよな。そういうのって、なんかあったかい気分にならねえか?」
ふとそう口に出してから、急に恥ずかしくなって、直江の顔がまともに見れなくなった。
直江といると、普段なら絶対に言わないようなことまで、つい言ってしまう。
まったく何を口走ってるんだ、オレは!

「ええ。音楽や絵画でもそうですが、同じものに感動することで思いが通じ合えるような気持ちになる。束の間でも心が通いあう気がしますね。」
高耶は思わず直江を見た。直江はベランダにもたれて下を見ていた。
人の波を見つめる直江の瞳に、沈みかけた夕陽が反射した。
その光がなぜかとても懐かしくて、胸の奥が熱くなる。
この男はなぜいつも、こんなにオレの思いをまっすぐ受けとめてくれるのだろう。口にしなかった思いまで読み取ったかのような言葉が、心に染み渡る。

「あなたと一緒に見たかったんです。」
直江が俯いたまま告げた。
「子供の頃、家族で花火を見に行ったことがあるんです。美しい花火に見とれながら、そこにあなたがいないことがたまらなくなった。だから…。」
だからそれ以来花火を見に行かなかった。美しい光景に人々が心を通わせる中にいて、尚更大切な人がそこにいないことを思い知る。その苦しみをもう味わいたくなかった。

「今日は一緒だ。」
高耶は顔を上げた直江をいたわるように見つめて、
「花火、もうすぐだな。」
そう言うと、視線を隅田川に移した。


 

盛大な音と歓声が上がり、いろとりどりの光の粒がはじけた。
大きな花火が光の筋を引いてきらめきながら消えていく。
「おおっすっげぇ!こんなの初めて見たぜ!」
目を輝かせて花火に魅入る横顔が光に照らされて、子供のように素直に喜ぶ姿が、直江の心を暖かく満たしていた。花火の美しさが胸に染み入る。

次々と上がる花火は、まるで夢を見ているように綺麗だ。
どおんという音が体に響いて、言葉もなくただずっと、二人は花火を見ていた。
しばらくそうしていて、はっと我に返った直江が、
「疲れたでしょう?すみません。飲み物でも持ってきます。」
急いで取りに行こうとするのを高耶が止めた。

「いや、いい。ここに居ろ。」
「でも…。」
高耶はその場に座り込むと、
「お前もここで一緒に見ろ。見逃しちまう。」
床をぱんと叩いて、じれったそうに命令した。
微笑んで直江も高耶の隣に座った。

「これは枝垂れ柳ですよ、きっと。」
高く上がった花火玉が破裂する前に、直江が言った。
「なんでわかるんだ?」
「大きくて高く上がるのは、枝垂れ柳でしょう。」
妙に確信を持っている直江に、ホントか?と疑いつつ見ているうちに、ぱあんと大きな弧を描いて枝垂れ柳が広がった。
金色の光がきらきらと瞬きながら、ゆっくり落ちてゆく。

「これだけは下で見たかったな。」
光の消えた後を名残惜しげに見つめて高耶が言うと、
「そうですね。空から降ってくる光を見上げるのがいいんですが。」
残念そうに直江が言った。空が煙っている。今夜は星も月も見えなかった。

この都会にいると、星空を見つめることなどほとんどない。
まして体を貫くように降ってくる光を、見上げることなんてそうあるものではない。
だから一緒に見上げたかった。
けれど人込みから離れたここだからこそ、誰にも邪魔されずに、こうしてゆっくり花火を楽しめるのだ。
この時間を引き換えに出来るほどのものなど、あるはずがない。

直江はそっと高耶の肩に手を廻した。ぴくんと微かに肩が震えた。
それを感じながらも、包み込むように肩を抱く。
意外にも高耶は、その手を振り払わなかった。
少し俯いたまま耐えているような風情が直江の胸を射た。
抑えきれない思いが、ぎりぎりで留まっている。

「逃げないんですか?」
耳元でささやいた直江に、高耶は顔を上げずに視線だけを向けた。
「オレはいつも逃げたりしない。」
強がる瞳が愛しくて思わず唇を寄せた直江を、パシッと手で遮り、
「調子に乗るな。」
とまっすぐ顔を上げて睨んだ。

直江は残念そうに小さく溜息をつくと、ひゅるるると音をたてて登ってゆく花火玉を見つめて、
「今度はどんな花火でしょうね。」
そう言いながら、腕の中の高耶を離したくないというように、肩を抱く手に力を込めた。

どおぉん、ぱんぱんといくつもに別れて開いた花は、青いあじさいを思わせた。
「綺麗だな。」
高耶の声が胸のすぐ近くで聞こえた。
そっと見下ろしたとたん、静かに花火を見つめる澄んだ瞳と凛とした表情に、遥か昔の景虎が重なって見えて、直江は一瞬呼吸をとめた。
 二百年前、晴家が夜叉衆を抜けると聞いて駆けつけた直江に、
「誰が夜叉衆を抜けても構わない。お前も例外じゃない。」
そう告げた景虎の、深い孤独を宿した澄んだ瞳がそこにあった。

「あなたは今でも全てを一人で背負うつもりなんですか。」
突然の言葉に、高耶は驚いて顔を向けた。
「何を言ってるんだ、直江。」
直江はわけがわからず戸惑っている高耶を、両手で強く抱きしめながら、
「私にも背負わせてください。私はあなたを一人になんかしない。」
振り絞るようにして告げた。

景虎の記憶がなくても、高耶はあのときの景虎のままなのだと思った。
苦しみや哀しみを全て自分の胸の中に抱えて、どこかに吐き出すことが出来ない。
悪ぶって拗ねてみせても、人を傷つけることで却って自分が傷ついてゆく。
そんな繊細さと、大切なものを守る為に闘いの中に飛び込んでいく強さをあわせ持った魂は、幾重にも張り巡らせた棘だらけの檻の中で、誇り高い輝きを放ちながら、誰にも甘える事の出来ない孤独に震えていた。

「オレが何を背負っていようと、誰かと分けあうつもりなんかない。そんな馴れ合いはごめんだ。自分の荷物は自分で持つ。」
硬い声で答えた高耶を、なおも強く抱きしめると、直江はゆっくりと静かに言った。
「ええ。私があなたの苦しみを、代わりに背負うことはできません。けれど側で支えることならできるかもしれないでしょう。
辛いことは吐き出してしまえばいい。言葉に出来ないというなら、こうすればいいんです。」

最後の言葉は、高耶の首筋に唇を這わせながら口にした。
「バカ…じゃねえのか。そんなのお前が…したいだけ…だろ。オレを支える…なんて…。」
巧妙な動きで背中から腰に伸びてきた直江の手を払おうと、高耶は身をよじってもがいたが、体格の差はどうしようもなく、あっという間に組み伏せられてしまった。


 

「オレは花火を見に来たんだ!」
怒りに燃えた瞳できつく睨みつける。
直江はその目をまっすぐに見つめ返した。
 誰もが思わず怯んでしまうほどの高耶の視線を、真正面から受けとめて、その瞳の奥にあるものを探ろうとする。
そのあまりにも真剣な眼差しに、高耶の怒りは不安に変わった。

「いきなりどうしたんだ?」
ついさっきまでは、いつもの直江だった。
なのに突然こうなった理由がわからない。
「あなたの魂に触れたい。」
直江の声が震えていた。鳶色の瞳から涙がひとつぶ、高耶の頬に落ちた。

(お前はいつもオレの魂に触れている。)
そう告げてしまいたい気がした。

 その眼差しが、言葉が、何気ないしぐさが、オレの心をどれほど揺さぶっているのかを、直江は知らないのだろうか。
それとも知っていて、なおそれ以上を求めているのだろうか。
 どちらでもあるのだろうと、頭のどこかでわかっていた。
心の奥に触れてくるその指で、いっそなにもかも暴かれてしまいたい欲求が、自分の中にあることも。

 人は誰でも、欲しいものを追い求めている時は必死になる。
けれど一度手に入れてしまうと、いつのまにか情熱は冷め、そして新しいものを求め始める。
直江がオレをこんなにも求めるのは、まだオレに勝っていないからだ。
全てを手に入れても離れていかないと誰が言える?

 肉体の死が終りではないと知ってしまったこの身で、お前の情熱を冷めないままで自分だけに向けていて欲しいと願っているなんて、この欲深さは何なのだ。
その為にずっと振り向かなかった。
お前の思いを知っていながら利用した。
400年もの間に、オレは狂ってしまったのかもしれない。
こんな身勝手が許されるはずがない。わかっているのに…。
喪いたくない。だから言えない。お前を離したくないと。

「なにも言わなくていい。今は体の感覚に身を任せて。」
直江の唇が、はだけた胸に近づいた。熱い吐息が肌に触れる。
「やめろ!直江。オレはそんなこと求めちゃいない!」
抵抗する高耶の腕を抑えつけて、直江は心臓の位置にくちづけた。
肌に薄いあざが浮かぶ。

「お前がいう魂は、体のことなのか!」
そんなもので満足するのか。お前の思いはその程度のものなのか。
悔しさで涙が滲んだ。
あの涙はなんだったんだ。
あの言葉は、あの真剣な表情はなんだったんだ。

「おまえなんか、オレを抱きたいだけのケダモノだ!」
傷ついた高耶の瞳を、ひたむきな眼差しで見つめて直江が答えた。
「そうです。俺はケダモノだ。けれどこうでもしないとあなたは痛みを吐き出さない。頭で考えないで。溜まった哀しみを、体と一緒に出してしまえばいい。」
体だけが欲しいのかと、頑なになっていた高耶の心に、直江の思いが染み渡った。

 ふいに、なぜこの部屋に来ると落ち着くのかがわかった。
ここには直江がいるからだ。
心に抱え込んでいる様々な思いを、直江はこうして受けとめようとしてくれる。
それだけで胸の奥が温かくなってくる。

花火がドオンと鳴り響いた。
赤や青の光が直江の背中越しに輝きを放つ。
「直江…。」
言いかけた言葉を、直江のくちびるが奪った。
甘い痺れが走る。快感に流されそうだ。

「オレに勝つんじゃなかったのか。こんなことで、勝ったなんて思えるのか。」
やっとの思いで口にした。苦い思いが胸に広がる。
(卑怯なのはオレだ。お前を解放してやれないのはオレなのに。)

「俺はあなたに勝ってみせる。そしてあなたを手に入れる。これは勝負とは関係ない。あなたはただ感じればいい。今夜だけ、なにも考えないで。」
ひとりで苦しまないで。俺は離れない。絶対にあなたを離さないから。
直江の愛撫が、高耶の心の中にまで深く染みこんでゆく。

流れに翻弄されて乱れる高耶は、あまりにも魅惑的で、このまま抱いてしまいたい欲求に駆り立てられる。
それでも、直江は抱かなかった。
高耶の瞳の奥にあるあの深い孤独の影を、たとえひとときだけでも消せるなら、それだけでいい。

いつのまにか花火は終わり、祭りのあとの静寂が、霞んだ夜空に漂っていた。

花火を共に見ながら、あのとき高耶は何を見つめていたのだろう。
直江には見えないなにかを、いつも彼は見つめていた。
その強いまなざしの先にあるものを、共に見たいと願う。
腕の中で眠る高耶を見つめて、直江は優しく微笑んだ。

今夜はこのまま、ふたりで眠ろう。
明日からはまた苦しい日々が続くとしても…。
高耶をそっと抱きしめて、直江は静かに目を閉じた。

 

小説のコーナーに戻る

TOPに戻る