『ふたりで珈琲を…』

鮮やかな紅葉が、芦ノ湖に映える。
平日の朝とはいえ、この季節は訪れる観光客も多い。
晴れ渡った高い空の下を、氏照と高耶を乗せた小船は、小太郎の見事な舵さばきで湖の奥へと向かっていった。
ふいに辺りが霧に包まれると、澄んだ湖面が大きく波立った。
やがて現れた大きな竜は、変わらない懐かしい瞳で、三人を見下ろした。

「おまえの望むように生きなさい」
深い愛情に満ちたその声を、耳で聞くことは出来ない。
けれど氏照も高耶も、そして小太郎も、氏康の声を心の中で聴いていた。
「はい、父上。」
深く頷いて顔を上げると、もう竜の姿はなかった。
「三郎。やはり帰るのか?」
氏照が少し寂しそうな顔で問いかけた。

「兄上…」
直江の出張を知り、ひとりでいるよりはいいだろう?と、
冗談めかして温泉に誘ってくれた氏照の、優しい気持ちが嬉しかった。
大好きな兄といるのは楽しい。
なのにどうして帰りたくなるんだろう。
今帰っても直江はいない。なのに…兄上を寂しくさせてまで俺は…

顔を曇らせた高耶の肩を、氏照がポンと叩いた。
「馬鹿だな三郎。なんて顔をしている。」
にっこり笑った氏照は、今度は高耶をたしなめるように言葉を続けた。
「先程の父上のお言葉を、おまえは何と聞いた。」
高耶がハッと目を見開くと、優しいまなざしが近づいた。

「のう三郎。どんなものでも、誰も悲しませずに生きる事など出来ぬ。
だからといって、開き直ってむやみに傷つけるのは論外だが、
おまえは他人の悲しみまで、すぐそうやって背負ってしまう…」
言いながら、氏照は高耶の肩に両手を置いた。
大きな手。温かい兄上の手だ。

「良いのだよ、三郎。父上も私も、おまえが笑っていれば嬉しいのだ。」
私が寂しいからと、おまえが帰りたいのに帰らなかったとしたら、そのほうがよほど悲しい。
「私とて退きたくなければ退かぬ。それはおまえも知っておろうが。
黙って退いてやるときくらい、甘えておれ。」

ハハハと声を上げて笑った氏照は、勇猛果敢で知られた武将だ。
言葉どおり、どんな相手にでも、黙って引き下がる人ではなかった。
(三郎殿にだけは、相変わらずの兄バカでおられる)
と思った小太郎だったが、表情は変えず、視線だけを高耶に移した。

こんな感情を知らなかった頃は、望みも願いもなかった。
だが今は大切なもの、壊したくないと願うものがある。叶わぬ望みも…

『望むように生きる』とは、誰かの為に己を曲げたりせず、自分の意思に従うことだと、小太郎は思った。
ならば。自分は今、望むように生きている。
思いを心の中だけに留めておくのもまた、己が選んだ道なのだから。

真っ青な空に、飛行機がひとすじ白い線を描いた。
錦をまとった山々を映す高耶の瞳を、小太郎はただ見つめていた。

小田原駅のホームにつくと、氏照は別れ際にペットボトルを差し出した。
「荷物になるが、旨い水じゃ。疲れがとれる。帰ったら飲みなさい。」
「兄上…ありがとうございます。俺…俺は…」
嬉しいのに、言葉が出ない。胸がいっぱいになって涙が出そうだった。
「そんな顔をするな。手放したくなくなるではないか。」
たまらなくなって、思わず高耶の背をギュッと抱いた氏照は、そのまま子供をあやすようにポンポンと叩くと、笑って手を振った。
また会える。そう心の中で何度も呟いた氏照は、高耶の乗った新幹線が見えなくなるまで、小太郎と共にずっと見送っていた。

 *************

「ただいま」
誰もいない家の中は、ひっそりとして自分の声だけが間抜けに響く。
ふうっと溜息をつくと、高耶は部屋中の窓を開けた。
冷たい外気が、瞬く間に部屋の空気を一新する。
留守にしたのは一日半。別に汚れているわけではないが、今夜遅くには直江が帰ってくる。
ささっと手早く掃除機をかけてベッドを整えると、やっと少し落ち着いた気分になった。
茜色に染まっていた空が、もう夜の闇に包まれている。
窓を閉めてソファに体を沈めた高耶は、いつしか横になって眠っていた。

「お帰りなさい。高耶さん」
耳元で、聞きなれた心地よい声がささやく。
「ん…直江…帰ったのか」
呟いて顔を向けたが、まだ目は閉じたままだ。
「んあ? お帰りって…ただいま?」
目をこすって数回瞬くと、ようやく目が覚めたらしく、
「なに言ってんだ。おまえはただいまだろ?」
と笑いながら体を起こした。

「ああ。そうですね。忘れていました。」
しれっと答えて、直江は真正面から高耶を見つめた。
まだ箱根だと思っていた高耶が、帰ってくれていたことが嬉しかった。
その思いが言わせた言葉だったのだが…
「ただいま。高耶さん」
微笑んで言い直した直江に、高耶は満足げに頷いた。

「お帰り、直江。」
口に出してから、これを言いたくて帰ってきたのだと思った。
今夜はもう、ひとりで過ごす夜じゃない。
おまえが帰ってくるから、俺はここにいるんだ。

「あれ? ビデオ借りてきたのか。」
夜食を作っていた高耶が、目ざとくレンタルビデオの袋を見つけた。
「ふうん…なに借りたんだ? もしかして…」
からかうような声に、直江はクスッと笑いを漏らした。
「違いますよ。普通の映画です。珈琲を淹れて一緒に観ましょうか」
「違うって何がだよ。俺はなんにも言ってないぞ。」
少し赤くなって、唇を尖らせるのが可愛い。
直江は高耶を背中から抱きしめると、
「俺はあなた以外の人に感じたりしない。ビデオなんかより、あなたを思い出してする方がずっといい。…高耶さん…ねえ、もうこのまま…」
耳に唇を寄せて囁いたとたん、腹にエルボーを喰らった。
「バカ。んなこと言ってる暇があったら、さっさと皿を用意しろ!」
さっきよりもっと赤くなった頬を、名残惜しげに見つめて苦笑すると、直江は腹を押さえて大人しく引き下がった。

食べ終わると、珈琲を淹れようとする直江に、高耶は氏照からもらったペットボトルを差し出した。
「兄上が下さったんだ。疲れがとれるからって…」
「氏照殿が…。」
水を受け取って南西の方角に目をやった。
もちろんここから小田原は見えない。思念も届きはしないだろう。
それでも、直江の目には、氏照の温かいまなざしが浮かんで見えた。
「お心、大切に戴かねばなりませんね。」
微笑む直江を見つめて、高耶はこくりと頷いた。
いつもどこかで自分を見守ってくれている人がいる。
それはなんて幸せなことだろう。
直江が淹れた珈琲は、いつも以上に美味しかった。

「ビデオ観ますか?」
「いいな。」と頷いた高耶に、直江がいたずらっぽく続けた。
「実はね、あなたと観たかったものがあるんです。」
「へえ。どんな映画だ?」
直江が出したのは、少林サッカーだった。
「おおっ! サッカーじゃねえか! っつうか、格闘サッカーだろ?
 譲が面白いって言ってたヤツ。これ、おまえの好み?なわけねえな。」
目を輝かせて観ながら、高耶は首を傾げた。
「あなたが好きそうだと思って。返すのは一週間後ですから。」
楽しそうな高耶を見ているだけでも、借りてきた価値は充分ある。
映画は思ったよりずっと面白くて、時々ツッコミをいれる高耶と一緒に笑いながら、直江は映画の世界を楽しんだ。

直江の腕が、さりげなく肩に廻される。
少し体をずらせて、高耶はゆったりと直江に身を預けた。
ふたりで映画を見ながら珈琲を飲む。
それだけのことが、こんなにも心を満たしてゆく。
これ以上何を望むだろう。
もったいないほどの幸せが、ここにある。

自分が望むように生きているのかどうなのか、自分がどれほどの覚悟を持って生きているのかは、考えてみてもわからないけれど。
ただ、こんな幸せな時間が、ありふれた世界であってほしいと願う。
悲しい日や辛い日があっても、それがどんなに続いても、
こんな幸せな時間が、本当にあるのだと信じていられるように。

あしたも、ふたりで珈琲を…

 

         2005年11月10日 桜木かよ

これは霞月ちゃんのアンソロ−Tに載せてもらった作品。WEBでは初出です(^^)

  小説のコーナーに戻る

TOPに戻る