『ポケットふたつ分の幸福』

秋。箱根の山は紅葉に染まっていた。
赤や黄色のグラデーションが、晴れた空の青に映える。
清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、目を閉じると、瞼の中に美しい赤が広がった。
光が透ける。
心臓の脈動と共に揺れる赤い光を見つめてから、高耶はゆっくりと目を開けた。

「三郎。箱根の秋は美しかろう。」
氏照が微笑んだ。
頷いて笑顔を返す。
それだけで通い合う心が、そこにあった。

辛い運命に翻弄されても消えない二人の絆に、直江は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
芦ノ湖には氏康公もいる。
離れていても、こうして幸せを願ってくれる人がいるのは、なんて幸せなことなのだろう。
直江は謙信公を思った。
400年もの間、ずっと見守り続けてくれた大きな愛を。
目の前に広がる箱根の山々に、直江は遠い昔に歩いた越後の秋を重ねていた。

「今夜は、ここの温泉宿を予約しておいた。お前の好きな露天風呂もあるぞ。」
嬉しそうな氏照の声に、ハッと現実に戻った直江は、続いて聞こえた高耶の返事に驚いた。
「え? あ…。すみません、兄上。俺、今夜は帰らないと。」
「なぜじゃ、三郎。今宵はゆっくりと語りあえると思うたのに…。」
かわいそうなほどがっかりした氏照に、高耶はごめんなさいと頭を下げた。

「高耶さん?」
明日も休みのはずだ。二人揃って連休なんて珍しいな、と笑っていたのだから。
なのに、どうして…?
視線で問いかけた直江にも、高耶は曖昧な表情を浮かべただけで何も答えなかった。
「ならば、せめて風呂と夕食だけでも。それなら大丈夫だろう?」
頷いた高耶を見て、やっと氏照の笑顔が戻った。
「よし、では参ろう。」
小太郎の運転で宿に向う。
助手席に直江が座り、氏照と高耶が後部座席に並んで座った。

氏照は、この日をずっと前から楽しみにしていた。
今日の宿も、選びに選んで用意した。
驚かせたくて内緒にしていた自分が悪いのだ。
三郎には三郎の生活がある。
直江との生活が。
それを寂しいと思うのは間違っている。と思うのだが…。
(すまぬ、直江。今だけ…ここにいる間だけでいい。私の三郎だと思わせてくれ。)
氏照は胸の内で直江に詫びた。

宿に着くと、さっそく浴衣に着替えた。
パリッと糊のきいた趣味の良い浴衣に袖を通し、丹前を羽織ると、気持ちがシャキッと
引き締まる。
素足に畳の感触が心地よかった。
「よう似合う。そなたにはこの柄が良いと思うたのじゃ。」
目を細める氏照に気恥ずかしくなった高耶だったが、兄がわざわざ選んでくれたのだと
思うとやはり嬉しかった。
直江に渡された浴衣は落ちついた気品が漂うしじらで、高耶と並ぶとお揃いの柄でもないのに、
まるで対のようにしっくりと馴染んでいる。
二人の姿を見ながら、氏照は満足そうに微笑んだ。

風呂に入って美味い食事を楽しむと、あっというまに帰る時間になっていた。
「もう帰るのだな…。」
寂しそうな氏照に胸が痛んだ。
「また会いに行きます。今日は本当に楽しかった。兄上…お元気で。」
「氏照殿、ありがとうございました。」
深く頭を下げて礼を言うと、車で送るというのを断わって、二人は駅に向って歩き始めた。

「泊れなくて残念でしたね。」
名残惜しげに手を振る氏照の姿が、まだ目の端に残っていた。
「兄上には悪いことしたよな。…けど…。」
なにか言いたそうなのに、高耶はそれ以上言わずに黙って空を見上げた。

月の無い夜空に雲が流れる。
都会の灯りが空の端を染め上げ、暗いはずの闇夜を照らしている。
昔ならば、こんな夜には真っ暗な闇があった。
闇夜の烏という言葉があるように、夜空に雲が流れてもこんなにはっきり見えなかった。
人工の光がどんどん闇を奪って、隠しておきたいことまでも暴いていく。
夜には夜の。闇には闇の意味があるのに。

秋の冷たい風が吹きつけて、直江は高耶を庇うように風上に立った。
すると高耶が、いきなり直江のコートに手を突っ込んだ。
「ど、どうしたんです? 何を・・? 高耶さん!」
信じられない行動に、直江はすっかり動転してしまっている。

くすくす笑って、
「直江。ポケットに手、入れてみろよ。」
高耶が楽しそうに言った。
「?」
言われた通りポケットに手を入れると、両側にひとつずつ、温かいゆで卵が入っている。
「あったかいだろ? もっと熱かったんだけど、ちょっと冷めちまったかな。」
湯筒で茹でておいたんだ。と高耶が言った。
「たくさんあっても食べらんないから、ふたつだけな。美味いんだ、湯筒で茹でると。
秋の夜は寒いから、こうしてポケットに入れるとあったかくて一石二鳥だろ?」

いつのまにそんなことをしていたのだろう。
ふたつのポケットにひとつずつ。
ならば、もう高耶のポケットには何も入っていない。
俺の為に茹でてくれたのだ、この人は。

笑う高耶がたまらなく愛しくて、
「ええ。ですが、私はこの方がもっといいです。」
直江はコートに手を入れたまま、高耶の体を包み込んだ。
腕の中に、すっぽり入ってしまった高耶は、
「ばっかやろ。んなとこで何すんだよっ! 放せ…直江!」
もがもがと腕から逃れようと焦っている。

「暴れないで。誰も見てませんよ。」
しっかりと人のいる往来である。
見ていないはずがないのに、直江に放す気は全くなかった。
「闇夜なんですから、見えません。」
「嘘言うなっ! 今の時代に闇夜なんかあるかっ!」
「ステルスです。」

何を言い出すのか、この男は…。
ステルスはレーダーに映らないだけで、肉眼だとバッチリ見えるのだ。
それくらい、知らないお前じゃないだろう?
あまりに無茶な直江の論理に、思わず脱力してしまった。
笑いが込み上げてきて止まらない。
ついに高耶は、もがくのをやめて笑い出した。

ぎゅっと抱きすくめる腕が、頬に触れる吐息が、心地よくてここがどこだか忘れそうになる。
こんな場所なのに、このままでいたいとさえ思い始めている。
「そういえば電車の時間…。今何時でしょうね。」
直江が高耶を抱いたまま腕時計を覗き込んだ。
暗がりにいるので、さすがに時間までは見えない。
乗り遅れてはいけないと、渋々腕を解こうとした直江に、
「いいんだ、無理に乗らなくても。」
高耶が俯いて小さく呟いた。
「帰らなきゃいけないって言ったのは、あれは…。」

兄上に嘘をついた。本当は帰る理由など何もなかった。
ただ直江とふたりでいたかったのだ。だから家に帰りたかった。
けどそんなこと、口に出して言えない。
恥ずかしくて火を吹きそうだ。

「高耶さん。あれは…ってなんです? 続きを言って下さい。」
わざわざ唇のすぐそばに耳を差し出す。
「わかってんだろ?そんなの…んなこと言えっか!」
いじわるな直江の耳に怒鳴ってやろうかと思ったが、かわりに耳たぶを噛んでやった。

「・・・!」
息を呑んで絶句した直江は、静まらない胸の動悸のままに、
真っ赤になって横を向いた高耶の顎を引き寄せて深く唇を重ねた。
重なったくちびるから、甘い陶酔が押し寄せる。
やがて上気した頬のまま、ふたりはゆっくりと唇をはずした。

「帰りましょうか。」
「うん。家に帰ろう。」
直江のポケットに入れていたゆで卵を、帰る途中でひとつ食べた。
半分に割って食べると、たったひとくちだったけれど、いつもよりも数倍美味しい気がした。
卵が無くなったポケットに、直江が高耶の手を握って入れた。
「卵のかわりですからね。ちゃんと暖めて貰います。」
そんな風に言われると、手を引っ込めるわけに行かなくなる。
繋いだ手の温もりが嬉しかった。

どこからか、金木犀の香りが流れていた。
ずっと昔にも、この香りがする夜に二人でどこかの道を歩いた。
なつかしい記憶は、いつもふいに訪れる。
今日のことも、いつかまた懐かしく思い出すのだろうか。
ポケットのゆで卵を、壊さないようにそっと握った。
高耶と手を繋いでいるポケットと、卵の入ったポケット。
ポケットふたつ分の幸せが、直江の心を暖かく満たしていた。

              2004年11月5日

 

9000hitのキリリクで、やまと様から「秋の空」のお題を頂きました。
ほのぼのしたお話を書きたかったんだけど、なんか違っちゃったような〜(^^;
それから「湯筒」は、はたして箱根にあるんでしょうか・・(滝汗)
熊野の湯の峯温泉にあるんだけど、これで茹でるとホントにおいしいのです!
箱根にもあったらいいなあ・・・っていうか、この場合、無いと困る〜(笑)

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