1000年庶民
20年後には人間の寿命が1000歳以上に延ばせるようになる、っていう記事があった。これに対して多くは否定的な意見を述べてるんだけど、中には諸手をあげて賛成する変わった人もいて。

僕はもちろんイヤです。1000年も生きたくないのはもちろん、仮に20年後に実現するとしたら、100%間違いなく大混乱が起きる。現状の社会システムも、常識も一切通用しない。だいたい、1000年という長い時間を人間の精神が耐えられるものだろうか。

1000年生きたいと願う人はなぜそう思うのだろうか?なにか目的があるのだろうか?

たとえば、僕も1000年後の世界というのは見てみたい。しかしそれはタイムマシンで未来に行って見てみるとか、未来が見れる機械なんかで見てみたい、つまり傍観者として見てみたいということだ。1000年も生きながらえて見てみたいものではない。

賛成意見の中には、たとえばアインシュタインのような人が長生きすれば人類の進歩が加速するはずだ、というような意見もある。これはホントだろうか。極論だが、たとえばニュートンが1000年生きたとして、次々と新しい発見をしてアインシュタインの出現よりも早く相対性理論に達するだろうか?
期限のない仕事は一生懸命やらないものだ。どうせ死なないと思ったら、必死にはならないだろう。どんなにバイタリティにあふれ、前向きで頑張り屋でも、1000年向上し続けろといわれれば当惑するはずだ。1000年というのがどれくらいの長さなのか、僕らの常識的感覚では推し量れないからだ。
技術や学問の進歩というのは、社会の変遷などの「変化」に伴うものではないだろうか。多様性に伴うといってもいい。単一の世代だけでは、進歩は果てしなく緩慢になるのではないだろうか。第一、進歩というものを一義的に捉え、なんの疑いもなく礼賛するのも間違っている。進歩にも正しい進歩と誤った進歩があるはずだ。科学の進歩を否定することが別の意味、別の次元での進歩に繋がるかもしれない。

仮にアインシュタインが1000年生きるのが良いことだとしても、皆が長生きできるようになるとするなら、世界の独裁者達も皆1000年生きられるわけだ。世の中、悪い奴ってのはたくさんいるってことがわからないのだろうか。ならば、ということで選ばれた人だけが1000年生きられる、もしくはその逆みたいなことになれば、差別にも繋がっていく可能性も否定できない。

世代が変わらないということになれば、日本人なんか1000年先まで中国人や朝鮮人に謝罪し、補償し続けなければならないかもしれない。

どんな人間でも長く生きれば生きるだけ精神的に成長するというのであれば話は若干変わってくるが、それはないと思える。あきれるような事件を起こす老人だっている。学ぶことが嫌いな人はいくら時間があっても勉強しない。良い方向に成長するとも限らない。かえって堕落するのではないだろうか。

人間は種としては、少しづつ寿命を延ばしてきている。この延長で、何千年、何万年後に1000年生きるまでに進化するというならまだわかる。その頃には社会のシステムもそれ相応のモノになっているし、人々の感覚もそれに合うように進化しているはずだからだ。しかし、急に寿命が延びたら、社会の混乱は免れない。だいたい、「1000年生きられますよ」といわれたって、1000年経ってみなければホントかどうかわからない。これじゃあ一層混乱する。

いずれにしろ、一般庶民の僕には、1000年も健全に生きる自信もないし、また希望も持てないのである。人間という種は何千年前と比較して本質的にはなんら進化していないのだから。

(2005.06.05)