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墓 所 名 上杉憲実の墓
お墓の様子
所 在 地 神奈川県南足柄市怒田
1528(珠明寺)

〜コ メ ン ト〜

関東管領・上杉憲実の墓。関東管領は室町幕府の出先機関

である鎌倉府において鎌倉(関東)公方を補佐する要職で

あるが、歴代の鎌倉(関東)公方は将軍家に対する自立心が

強く、幕府に対して兵を起こそうとしたことすらもあった。関東

管領は鎌倉(関東)公方に従う存在であるが、その任命は形の

上では将軍が行うこととなっており、上杉家は将軍家の配下

でもあった。このため歴代の関東管領は将軍と公方の間に

立って苦労する宿命にあった。憲実が仕えた足利持氏は

籤引きで足利義教が第六代将軍に就任すると徹底的に対立

するようになり、正長2(1429)年に京都で改元が行われても

これに従わず、永享6(1434)年には「呪詛怨敵」と打倒義教の

意を込めたとされる血書の願文を鶴岡八幡宮に奉納している。

永享8(1436)年には幕府の分国である信濃国の内部抗争に

持氏が出兵しようとしこれを諌めたが、強硬に兵を出したため、

憲実はやむなく自らの兵をもって鎌倉府軍の信濃国侵入を

阻止するなど粉骨砕身して幕府と鎌倉府の確執の調停に

奔走した。しかしながら永享10(1438)年に持氏の嫡子・

賢王丸の元服に際し、慣例に従い将軍の一字拝領を賜る

よう憲実が進言するものの、持氏はこれを無視して「義久」と

名乗らせ、さらには自身が暗殺されるとの風説が流れると、

憲実は「身に於て誤りなくして御旗を向けられ、御敵分に成て

討れん事、不忠之至り末代迄の瑕瑾也」と自害しようとしたが

近臣に阻まれた。その後、鎌倉を脱出し上野に逃れると、

持氏は憲実追討のために兵を起した。これを絶好の好機

とした幕府はすぐさまに持氏討伐軍を下し持氏を降伏

させた(永享の乱)。この時、憲実は持氏の助命を嘆願

するも許されず、心ならずも持氏を死に至らしめることに

なった。乱後、憲実は主人を死に追い込んだ後悔の念から

出家して伊豆に隠退した。永享12(1440)年に持氏の遺児、

春王丸・安王丸を擁した持氏方残党が常陸国で挙兵(結城

合戦)すると幕府の強請により、憲実は鎌倉府に復帰した。

結城合戦後も憲実が関東の政界に在ることが京都と鎌倉の

無事を保つ道であると考えた幕府の執拗な引き止め工作

により、文安4(1447)年まで関東の政界にあった憲実だが、

関東管領就任を拒み続ける憲実に代わり、嫡子の憲忠が

関東管領に就任すると憲実は憲忠を不忠の子であるとして

義絶した。(後年、憲実の危惧通り、憲実を親の仇だと考えて

いた足利成氏は享徳3(1454年)に憲忠を暗殺して、享徳の

乱が引き起こることとなる)これを機に鎌倉を去り、政界を

退いた憲実は僧となって諸国を放浪した。翌年には傘を

かぶり、わらじを履いて独りで歩いている憲実が、主・持氏に

そむいた謝罪の行脚であると他人に語ったという記録が

残されている。晩年の14年間は長門の大寧寺に入り、

同寺で亡くなった。尚、憲実は文武ともにすぐれ、儒学に

篤く、足利学校や金沢文庫を再興したことでも有名で当代

一流の知識人として名望が厚かった人物でもある。

憲実の墓とされるものは山口県の長門市にもある。

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