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墓 所 名 長宗我部信親の墓
お墓の様子
所 在 地 大分県大分市上戸次嶺

〜コ メ ン ト〜

長宗我部元親の嫡男、信親の墓。信親は少年時代から

聡明で体格も優れ、一族家中の信望も厚く、特に父で

ある元親の期待は絶大なものであった。「元親記」など

には信親のために元親が文芸の師を京や堺から招いて

指南を受けさせたことが記されている。さらに天正三

(1580)年になると元親は中央部を席巻していた織田

信長に使者を送り、烏帽子親を懇願、偏諱として「信」の

字を与えられている。信長から偏諱を与えられた者は他に

一人しかいないので、これは極めて異例なことであった。

その後、四国平定のため元親に従軍するも、秀吉の四国

征伐で敗退した。翌年、秀吉の命令で九州征伐の

先陣として向かうも、戸次川の合戦で軍監・仙石秀久の

無謀な作戦失敗から、薩摩勢の猛攻により指揮系統は

分断され、乱戦の中で元親の消息も分からないまま

孤立した信親は、一歩も引くことなく中津留河原に

ふみとどまり、信長から拝領した左文字の太刀を振るって

激戦の末、討死した。信親が討死にした後の元親

落胆振りは相当なものであり、その性格は一変し、継嗣

問題など色々な問題を引き起こしたといわれている。

尚、信親の墓とされるものは高知市の雪蹊寺にもある。

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