トップページへ戻る
墓 所 名 木曽(源)義仲の首塚
お墓の様子
所 在 地 京都府京都市東山区
八坂上町388(法観寺)

〜コ メ ン ト〜

木曽(源)義仲の墓。父は源義賢、母は遊女という。
頼朝

範頼・義経・阿野全成とは従兄弟にあたる。2歳の時に

父・義賢が源義朝の子・義平に武蔵国大蔵館で

討たれると、幼児の義仲は信濃に逃れ、木曽谷で

乳母の夫・中原兼遠に養育された。治承4(1180)年

9月、以仁王の平家追討の命旨に応じて信濃で

挙兵した。平家方の小笠原頼直を破って上野国に

進出したが、頼朝との軋轢を避けるために信濃に

帰還した。翌養和元(1181)年になると越後の城長茂を、

越前水津で平氏の追討軍を破り北陸道をほぼ制圧した。

寿永2(1183)年、叔父行家の去就等をめぐり頼朝

対立するが、嫡子・義高を頼朝の婿として鎌倉に送り

和睦をすると、同年5月に平家の大軍を倶利伽羅峠で

撃破し入京をはたした。勲功により伊予守に任じ

られたが、後白河法皇との関係は当初から円滑を

欠き、都の統治も上手くいかず、以仁王の子・北陸宮

擁立を画策して朝廷との対立を深めた。11月に院近臣の

反乱を武力鎮圧してクーデターを起こしたが、このために

義仲はよりいっそう孤立した。寿永3(1184)年1月に

征夷大将軍となって自らを旭将軍と称したが、頼朝

派遣した源範頼・義経に攻められ、近江の粟津で

討死した。尚、義仲の墓とされるものは滋賀県の

義仲寺
と長野県の徳音寺にもある。

日本全国歴史的人物の墓を巡る旅のトップページへ戻る