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墓 所 名 日野富子の墓
お墓の様子
所 在 地 京都府京都市上京区
行衛町440(華開院)

〜コ メ ン ト〜

日野富子の墓。富子は室町幕府第八代将軍足利義政の正室で

16歳で義政に嫁し、女子2人を生んだが義政の後継者となる

べき男子の誕生をみなかった。このため義政は出家して浄土寺

門跡となっていた弟の義尋を還俗させ、名を義視と改めて

継嗣とした。しかし翌年になるとはからずも富子に義尚が

生まれたため、将軍継嗣をめぐる富子と義視との対立確執が

生じ、富子は後援者として
山名持豊(宗全)を頼り、義視は

細川勝元を頼ることになった。さらに斯波畠山の管領家の

家督争いもからみ、これが原因となって応仁元(1467)年に

応仁の乱が勃発した。乱の最中に義視が西軍に出奔したため、

義尚が正式に継嗣と定められ、ついで文明5(1474)年に

義政の跡を継いで義尚が九代将軍に就任した。しかし義尚は

当時わずか9歳にすぎず、義政は現実から逃避してもっぱら

遊興にふけり、政務に対する興味と情熱を失っていたため、

富子が義尚の後見人として直接政治に関与するようになった。

このため、当時天下の政治はすべて御台(富子)の意のままで

あるといわれるほどであった。富子はまた政治に関与するばかり

ではなく、蓄財にも積極的に励み、打ち続く戦乱で窮乏した

諸大名に高利で金銭を貸し付けたり、米相場に介入して

暴利を得たり、京都七口などに関所を設けて関銭を徴収

するなど、さまざまな手段を用いて莫大な財貨を蓄積して

いった。こうして富子は将軍義尚の後見人として絶大な

権勢をふるったが、あまりにも政治に介入しすぎるため、

文明15(1483)年頃からは頼みの義尚とも次第に不和と

なっていった。延徳元(1489)年に義尚が近江の陣中で

没し、翌年に義政も没すると、かつて将軍継嗣をめぐって

争った義視の子の義材(のち義稙と改名)を迎えて第十代

将軍としたが、義視・義材親子との対立はこれで終止する

ようなものではなく、明応2(1493)年には管領細川政元

はかってこれを退け、かわりに義政の末弟である堀越公方

足利政知の子・清晃(のち義澄と改名)を還俗させて

第十一代将軍とした。明応5(1496)年に57歳で没した

あとには「七珍万宝」といわれる多くの遺産が残された

という。しかしながらその晩年は必ずしも幸福であったとは

いえず、家族的には孤独で不遇であり、ときの将軍足利

義澄は葬礼にも臨まなかったという。

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