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墓 所 名 源範頼の墓
お墓の様子
所 在 地 横浜市金沢区
片吹61−5(大寧寺)

〜コ メ ン ト〜

源範頼の墓。範頼は源義朝の六男(母は遠江国池田宿の

遊女)で、頼朝の異母弟、阿野全成・義経の異母兄に

あたる。遠江国蒲御厨で生まれたために、蒲冠者と

呼ばれた。治承4(1180)年、頼朝が源氏再興の兵を

挙げると、直後に頼朝の軍に参陣し、寿永2(1183)年

には志田義広を下野国に攻めている。その年の末に

頼朝が後白河法皇の院宣により、木曽義仲の追討を

命ぜられると、弟の義経と共に頼朝の代官として

京都に上り、翌寿永3(1184)年には近江国瀬田で

木曽義仲の軍を破る戦功を立て、続く一ノ谷の合戦では

大手になる生田森から攻め込んで平家の軍を破り、

その功により、従五位下・三河守に任じられた。同年

8月に西海遠征軍が編成されると範頼は平家追討軍の

総大将に任じられ、山陽道の討伐に向かい、文治元

(1185)年には長門の赤間関に到った。九州に入ると

豊後国で平家方の原田種直を倒し、以後、九州沿岸部の

平家勢力を次々と討滅して平家軍を孤立させ、壇ノ浦の

合戦で平家軍を滅亡させた。平家滅亡後は範頼の幕閣

での地位も安定し、源氏の御門葉の一人として常に一般の

御家人よりも上席の存在として位置づけられた。その後、

奥州征伐にも出陣したが、建久4(1193)年の曽我兄弟の

仇討ちの際に、鎌倉に頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ

政子に「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたことにより、幕府

横領の野心があると疑われた。範頼はすぐに起請文を

出して弁明に努めたが、頼朝の嫌疑は晴れず、伊豆国

修禅寺に幽閉され、直後に自害させられたとされる。

しかしながら、ここ大寧寺の寺伝では鉈切まで逃れて、

海に向いて建つ大寧寺に入って自害したとされている。

(尚、範頼の墓とされるものは静岡県の伊豆市

埼玉県の北本市にもある)


※源氏嫡流の家系図についてはこちらをご参照下さい。

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