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墓 所 名 山名時氏の墓
お墓の様子
所 在 地 鳥取県倉吉市巌城956
(山名寺)

〜コ メ ン ト〜

山名時氏の墓。山名氏は新田一族で山名義範が源頼朝から

源家の一族として御門葉に任じられるなどしたが、鎌倉末期の

時氏の代に至っては「ただ民百姓のごとくにて上野の山名と

いふ所より出侍しかば、渡世のかなしさも身の程も知にき」

という程に没落していた。しかしながら、元弘・建武の乱が

起こると、時氏は本家の新田義貞には従わず、足利尊氏に

属して活躍、建武4(1337)年には伯耆の守護職に任じられ、

さらに丹波・若狭を加えて3ヶ国の守護を兼ね、侍所頭人の

職にも就くなど後年山名氏が室町幕府の四職の家柄となる

基礎を築いた。観応の擾乱が勃発すると尊氏側近の佐々木

道誉
と対立して直義方に転じ、直義が鎌倉で殺害されると、

直義の養子直冬を擁立して南朝に帰準した。この時、南朝の

後村上天皇から「山名は新田の嫡流、よろしく南朝の大将

たるべし」と錦旗および桐の御紋章を授けられたと伝えられて

いる。以後、伯耆国を中心に因幡・出雲・隠岐を実力で

討ち従え、山陰おける反幕勢力の雄としてしばしば南朝と

呼応して京都に攻めのぼり、文和2(1353)年6月および

文和4(1355)年の二度にわたって、南朝方の京都回復に

功を上げた。しかし、いずれの場合も京都占領は長続き

せず、貞治2(1363)年に直冬党が安芸・備後などで

幕府軍に敗れ、直冬自身も石見に逃れるなど直冬党が

凋落すると、時氏はそれまでに南朝や直冬から与えられて

いた五ヶ国の守護職の安堵を条件に幕府に帰参した。

尊氏党の武士は「多く所領を持たんと思はば、只御敵に

こそ成るべかりけり」と嘆き合ったといわれているが、そうした

不満の声があがってもなお、幕府としては時氏の帰順が

南北朝の統一には必要不可欠であるとみており、時氏の

帰服が北朝優位に決定的役割を果たしたという意味で、

南北朝の動乱の帰趨を握っていた人物といえるだろう。

尚、山名氏は時氏の没後も威勢が衰えず、ついには山名

一族が守護に任じられた国が十一ヶ国を超え、日本全国

六十六ヶ国の六分の一にあたるため、世に「六分一殿」

「六分一家衆」と称されることになるのである。


※山名氏の系図についてはこちらをご参照下さい。


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