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墓 所 名 伊能忠敬の墓
お墓の様子
所 在 地 東京都台東区東上野6−18

〜コ メ ン ト〜

実測によるわが国初の日本地図「大日本沿海輿地全図」

(伊能図)を作成した伊能忠敬の墓。忠敬は17歳の時に

伊能家の婿養子となり、傾いた養家の家運を回復して名主

となり、名字帯刀をゆるされた。49歳で家業を長男に譲り、

隠居して江戸に出ると、19歳年下である幕府天文方の高橋

至時に師事し、天文学・暦学を学んだ。寛政12(1800)年に

なると幕府の許可を得て自費で北海道と奥州街道を測量

して地図を幕府に献上。以後は幕府の支援を得て文化13

(1816)年まで、55歳から71歳までの間に計10回にわたって

日本全国津々浦々の測量を行った。忠敬が行った実測に

よる全国測量は日本初の試みであり、日本中を廻って測量を

終え、この結果をもとに『大日本沿海輿地全図』の作成に

取り掛かったが、完成をみることなく、文政元(1818)年4月

13日に73歳で没した。忠敬の死後『大日本沿海輿地全図』の

作成は、幕府天文方や門弟に引き継がれ、文政4年(1821)

に完成した。忠敬の測量事業は、当初は個人事業として

始められたが、途中で将軍・徳川家斉の上覧を受けるなど

幕府に認められ、約80%は幕府事業として遂行された。

忠敬が作成した日本地図は、総称して「伊能図」と呼ばれ、

文政4(1821)年に完成の『大日本沿海輿地全図』(大図

214枚縮尺1/36,000、中図8枚縮尺1/216,000、小図

3枚縮尺1/432,000)のほか、測量ごとに作った地図や

名勝地を描いたものなど約400種類があるが、その大きな

特徴は、どの地図も実際の測量に基づいているため、とても

正確であるとともに、芸術的な美しさを備えていることで

ある。これらの地図は江戸時代には一般に活用される

ことはなかったが、明治維新後、新政府によって発行された

軍事、教育、行政用の地図に基本図として使われ、影響は

明治末期にまで及ぶなど忠敬は近代的な日本地図

作成の先駆者であったといえる。

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