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墓 所 名 大江親広の墓
お墓の様子
所 在 地 山形県西川町大字
吉川字中1365−2

〜コ メ ン ト〜

大江親広の墓。親広は鎌倉幕府創立の功臣で、

宿老として常に幕府の中枢にあり、幕政の重要な

役割を担った大江広元の嫡男で、早くから将軍

側近として重要された。また北条義時の娘を妻に

するなど北条氏とも密接な関係を築いた。将軍・

実朝の死後には出家して蓮阿と称し、その後、

京都守護に任じられ伊賀光季と共に上洛、洛中の

警固にあたった。承久の乱に際しては後鳥羽上皇の

命に従い、京方として近江国供御瀬に出陣、敗れて

京都に戻った。『吾妻鏡』の六月十四日条には

「親広は関寺辺において零落すと云々」とあり、

この記事を最後に親広は『吾妻鏡』から消える

こととなる。元幕府の重臣であった親広について、

追求の手がなかったとは乱後の幕府の処置に

照らして言えない筈であるが、乱後は自身の所領

である出羽国寒河江荘に落ち延びて潜居した

とされ、同地で仁治2(1241)年に没したという。

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