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墓 所 名 北条経時の墓
お墓の様子
所 在 地 神奈川県鎌倉市
材木座6−7−19(光明寺)

〜コ メ ン ト〜

鎌倉幕府第四代執権北条経時の墓。経時は北条泰時

嫡孫で祖父の死後に第四代執権に就任した(父の時氏は

祖父・泰時に先立ち死去している)が、おそらく北条家の

歴代得宗&執権の中で一番知名度が低く影が薄い存在

ではないだろうか?中には北条家の家督(得宗)は

泰時→時頼と受け継がれたと思われている方も少なく

ないだろう。しかしながら、前述の通り、泰時の死後は

嫡孫である経時が北条家の家督(得宗)と執権職を

継いだのである。経時の執権在任期間は歴代の得宗の

中では最も短かったが、その施政には見るべきものが

少なくない。その一つは四代将軍藤原(九条)頼経の

更迭である。最初は傀儡だった頼経も鎌倉における

20余年の生活を通じて幕府内における一定の勢力と

なっていたため、これを更迭し、頼経の子・頼嗣を

将軍とし、続けざまに経時の妹と頼嗣を結婚させた。

また、訴訟の緩怠を戒めるために評定衆の改革を行い、

合理化を図るなど執権政治の安定維持に貢献した。

しかしながら、経時の前の泰時、経時の後の時頼の

両人の施政期間が長く、その間の経時の施政期間は

わずか4年でしかなかったため経時の評価は高くない。

尚、経時の死にあたり、2人の息子がいたにも関わらず

『深秘の御沙汰』なる秘密会議の結果、執権職は

経時の息子ではなく、弟の時頼が継ぐことになった。

吾妻鏡ではその理由を経時の二人の息子がまだ幼かった

ためとしているが、この時に経時の長男・頼助を執権に

立てて、弟の時頼が輔弼の任にあたってもよく、もしくは

頼助が成長するまでのつなぎとして時頼が執権になる

という方法もあったはずである。事実、のちに時頼が

長時に執権を委譲した際には、後者の方法が

とられている。結局、経時の長男は仏門に入って

佐々目僧正頼助と称して、鶴ヶ丘八幡宮寺の

別当にもなり、弟の隆時(のち隆政)も、同じく仏門に

入って権律師になったが、2人とも北条家の家督

(得宗)を時頼から返されることはなかった。経時から

時頼への執権職委譲は、兄から弟への委譲という

のみならず、泰時→(時氏)→経時と代々嫡男が

嗣いできた北条家の家督(得宗)が嫡男の系統から

次男の系統に移り、時宗→貞時→高時へとなって

いくのである。ちなみに、経時のことを過小評価

している吾妻鏡は時頼系の時宗、貞時の頃に

編纂成立したものである。

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