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墓 所 名 最上義定の墓
お墓の様子
所 在 地 山形県山形市
中野353(雲祥院)

〜コ メ ン ト〜

羽州探題最上氏の第十代当主義定の墓。義定は義淳の

嫡子で永正元(1504)年に家督を相続し、同年中に

寒河江氏を攻めてこれを降伏させ、支配下においた。

さらに永正9・10(1512・3)年に庄内地方で武藤氏、

砂越氏の争乱が起こった時には寒河江方面に出陣する

など山形盆地での勢力拡大につとめた。しかしながら、

永正11(1514)年2月に伊達稙宗が最上領に侵入し、

長谷堂城を襲撃すると、最上勢は寒河江氏の援軍を

得て応戦するも、寒河江政周以下、楯岡満英、長瀞

左衛門、山辺刑部、吉河兵部ら一千余名が討死する

大敗を喫し、長谷堂城を奪われた。惨憺たる敗北で

あった。原因は義定の命令が遅れたとも、義定の到着が

遅れたせいだともいう。占領された長谷堂城には伊達家の

重臣・小梁川親盛が駐留した。翌12年になると義定は

稙宗の妹を正室とする条件で、かろうじて稙宗と和睦

することができ、長谷堂城は最上家に返還された。

しかし、その5年後の永正17(1520)年2月に伊達から

入った夫人との間に嗣子のないままに義定が急死した。

義定の死後、山形城は事実上伊達家の監督下に置かれる

こととなったが、これに対して最上氏の支族である上山

城主・最上義房を筆頭に最上衆が一斉に蜂起し、結果、

再び稙宗の軍事介入を招くなど山形盆地の争乱は混迷の

度を深めていくことになった。


※最上氏の系図についてはこちらをご参照下さい。


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