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墓 所 名 吉良上野介義央の墓
お墓の様子
所 在 地 愛知県吉良町岡山
山王山58(華蔵寺)

〜コ メ ン ト〜

忠臣蔵で有名な吉良上野介義央の墓。吉良氏は足利

将軍家
の支族で「御所(足利将軍家)が絶ゆなば吉良が

継ぐ」といわれた名門中の名門で、江戸時代には代々

高家筆頭として朝廷と幕府の間の諸儀式をつかさどった。

天和3(1683)年に高家衆の指導役として高家肝煎の職が

設けられると義央はこの役に就き、幕府の中心において

儀典礼法を主導し、朝廷外交の中心的役割を担ったが、

元禄14(1701)年3月14日江戸城中で勅使接待の事務

執行中に赤穂藩主浅野内匠頭長矩に斬りつけられて

負傷し、同年隠居した。そして翌元禄15(1702)年12月

15日に切腹、改易の処分を受けた浅野内匠頭長矩の

旧臣・大石内蔵助良雄ら赤穂浪士の襲撃を受け殺害

された。尚、この元禄赤穂事件の発端となった殿中

刃傷の原因が不明だったこともあり、切腹、改易となった

浅野内匠頭長矩への同情が集まり、さらに翌年の

赤穂浪士討入事件は泰平の世に衰えがちであった

武士道の鑑として世の人を感動させ、事件直後から

「忠義の士だ。義士だ」と騒ぎ立てられた。これが芝居の

格好の題材となり、やがて不動の名声をはくした『仮名

手本忠臣蔵』が完成すると、仇役として登場する吉良

上野介義央は強欲非道で冷酷、悪人の極みとして

喧伝された。しかしながら、これらの悪人像は文芸の

世界でのことであり、知行地の三河国吉良荘では

築堤や新田開発などを行った名君とうたわれ、

文雅の士でもあったと伝えられている。尚、義央の

墓は東京の中野区にもある。


※吉良氏の系図についてはこちらをご参照下さい。

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