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墓 所 名 赤松政則の墓
お墓の様子
所 在 地 兵庫県加西市
福居町328(長円寺)

〜コ メ ン ト〜

赤松政則の墓。赤松氏は嘉吉の乱で本宗家が滅んだが、

政則の父・時勝は赤松満政に託されて城を脱出、

天隠竜沢に匿われて成長した。時勝の早世後、

赤松氏の遺臣たちはその遺児・次郎法師丸(政則)を

担いで主家再興を企て、長禄2(1458)年、吉野に南朝の

皇胤を襲い、嘉吉3(1443)年に内裏から奪い去られた

ままになっていた神璽を奪還した。これにより当時4歳の

次郎法師丸に加賀半国守護職と備前新田荘が与えられ、

赤松家の再興が許された。この再興劇の裏には、播磨の

国人上月氏の出身で当時幕政に深く関与していた

蔭凉軒主季瓊真蘂や、赤松氏の旧領を得て強大化した

山名氏の勢力を快く思わない細川勝元による将軍足利

義政
への口添えがあった。以後赤松氏は一貫して細川氏と

親しい関係を保つことになる。 寛正6(1465)年、次郎

法師丸は元服して政則と名乗り、応仁の乱では東軍の

細川勝元に属して戦い、まもなく嘉吉の乱により山名氏

与えられていた播磨・備前・美作の守護職を回復した。

将軍足利義政・義尚との関係も良好で、文明9(1477)年

には侍所頭人に任じられている。しかし三ヶ国をめぐる

山名氏との対立は収拾せず、文明15(1483)年には山名

政豊が播磨に侵入、戦闘が続いた。政則は一時窮地に

立たされたが、重臣浦上則宗の力により優勢となり、

長享2(1488)年にようやく山名氏を撃退、明応2(1493)年

には勝元の娘(洞松院)と結婚して細川氏との関係は

一層深まった。明応5(1496)年閏2月、赤松氏としては

最高の従三位に叙せられたが、同年4月播磨坂田荘の

長円寺で病没した。

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