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墓 所 名 尼子経久の墓
お墓の様子
所 在 地 島根県安来市広瀬町
広瀬1431(洞光寺)

〜コ メ ン ト〜

尼子経久の墓。尼子氏は室町幕府の四職家である京極氏の

一族で経久の祖父・持久の代に守護代として出雲に下向

したとされる。経久は文明10(1478)年頃に父・清貞から

家督を継ぐと守護京極政経との対決姿勢を急速に強め、

守護権力を排除し、戦国大名へと発展せんとの野望を

見せたため、これを察知した守護政経により文明16

(1484)年に守護代を罷免され富田城から放逐された。

しかしながら、文明18(1486)年に富田城を実力で奪還

した経久は守護政経を追放し、以後着実に戦国大名への

道を歩み出すことになった。永正5(1508)年頃に出雲一国の

平定を完了すると、当時中国地方最大の勢力を誇っていた

大内義興が足利義稙を奉じて上洛しており、領国を不在と

していたことを好機とし、山陰・山陽にまたがる大きな

版図を築き、中国地方において西の大内氏と勢力を二分

するまでに成長し、十一州の太守と呼ばれるまでになった。

そうした中、尼子氏と大内氏の勢力争いは熾烈な展開を

みせたが、大永4(1524)年に毛利元就が主家を相続した

際に元就の弟の元綱を推したことがもとで、元就が

尼子氏と袂を分かち大内氏に服属してしまったことは、

経久や尼子氏にとって一大痛恨事となった。また経久の

嫡子・政久は父に先立ち戦死してしまっていたため、

嫡孫の晴久が成長するまで奮闘することを余儀なく

されたが、天文10(1541)年に安芸吉田の郡山城を

攻めた晴久が毛利元就に大敗北を喫したとの報を

聞いた経久は、尼子氏の行く末を案じながら、84年の

波瀾の生涯を終えた。尚、経久の墓の右隣にあるのは

父・清貞の墓である。

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