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墓 所 名 三浦義澄の墓
お墓の様子
所 在 地 神奈川県横須賀市大矢部

〜コ メ ン ト〜

三浦義澄の墓。義澄は源家累代の家人として平治の乱

(1159年)の際には源義朝に従って戦ったが、結局この

戦いに敗れた義朝の下知により、東国に落ち延びた。

その後、三浦一族は逼塞することを余儀なくされたが、

治承4(1180)年に源頼政が平氏打倒の兵を挙げ、

以仁王の令旨が諸国の源氏に下されると、京都大番役で

在京していた義澄は伊豆の頼朝のもとに参上し、

この情勢を報告するとともに、挙兵についての密議を

交わし、三浦氏は頼朝の旗挙げに応じることになった。

そして富士川の合戦勝利後の論功行賞で、義澄は

本領と三浦介を安堵され、名実ともに三浦半島の主で

あることを認められた。これ以後も、頼朝の佐竹征伐、

平家追討、奥州征伐に重臣として参戦し、戦功を

重ねた。建久元(1190)年に頼朝が上洛し、後白河法皇

からの要請により、御家人10人の任官を推挙した際には、

10人中、実に3人が三浦一族(義澄、佐原義連、和田義盛)

から推挙された。建久3(1192)年に後白河法皇が没し、

頼朝が念願の征夷大将軍に任じられ、その勅使が除書

(任命書)を携えて鎌倉に到着した際には、その栄えある

受け取りの使者に三浦義澄が選ばれている。頼朝

義澄を家臣の第一人者として認めていたことが伺える。

このように頼朝は三浦氏累代の功に感じ、義澄を厚く

処遇し、義澄もこれに応えてよく頼朝に仕え、幕府宿老

として幕政の重要な役割を担った。

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