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墓 所 名 源範頼の墓
お 墓 の
様 子
 動  画
所 在 地 静岡県伊豆市修善寺温泉場

〜コ メ ン ト〜

源範頼の墓。範頼は源義朝の六男(母は遠江国池田宿の

遊女)で、頼朝の異母弟、阿野全成・義経の異母兄に

あたる。遠江国蒲御厨で生まれたために、蒲冠者と

呼ばれた。治承4(1180)年、頼朝が源氏再興の兵を

挙げると、直後に頼朝の軍に参陣し、寿永2(1183)年

には志田義広を下野国に攻めている。その年の末に

頼朝が後白河法皇の院宣により、木曽義仲の追討を

命ぜられると、弟の義経と共に頼朝の代官として

京都に上り、翌寿永3(1184)年には近江国瀬田で

木曽義仲の軍を破る戦功を立て、続く一ノ谷の合戦では

大手になる生田森から攻め込んで平家の軍を破り、

その功により、従五位下・三河守に任じられた。同年

8月に西海遠征軍が編成されると範頼は平家追討軍の

総大将に任じられ、山陽道の討伐に向かい、文治元

(1185)年には長門の赤間関に到った。九州に入ると

豊後国で平家方の原田種直を倒し、以後、九州沿岸部の

平家勢力を次々と討滅して平家軍を孤立させ、壇ノ浦の

合戦で平家軍を滅亡させた。平家滅亡後は範頼の幕閣

での地位も安定し、源氏の御門葉の一人として常に一般の

御家人よりも上席の存在として位置づけられた。その後、

奥州征伐にも出陣したが、建久4(1193)年の曽我兄弟の

仇討ちの際に、鎌倉に頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ

政子に「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたことにより、幕府

横領の野心があると疑われた。範頼はすぐに起請文を

出して弁明に努めたが、頼朝の嫌疑は晴れず、伊豆国

修禅寺に幽閉され、直後に自害させられた。

(尚、範頼の墓とされるものは神奈川県の横浜市

埼玉県の北本市にもある)


※源氏嫡流の家系図についてはこちらをご参照下さい。

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