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墓 所 名 里見忠義(主従)の墓
お墓の様子
所 在 地 鳥取県倉吉市東町422
(大岳院)

〜コ メ ン ト〜

里見忠義の墓。忠義は父・義康の死後、10歳で

家督を継ぎ、安房12万石を相続した。しかしながら、

慶長19(1614)年9月に大久保忠隣の失脚に連座して

改易となった。表向きは国替えで伯耆倉吉に3万石を

与えるということだったが、実際に忠義に与えられたのは

わずか4千石余りにすぎず、また倉吉では蟄居処分で

あったとも伝えられている。元和2(1616)年山田八幡宮に

奉納された「敗壊転倒奇かな妙かな」ではじまる棟札の

願文には、自分の没落を奇妙と評する改易直後の忠義の

心境がつづられ、房州太守の身でありながら、徳川家の

威風によって今は西国倉吉の地にあること、世の流れで

西国に斜陽の日を送っているが、太陽も月も地に落ちる

ことはなく、やがては再び東から明るい光をさしてくれる

時がくることを信じていることなどが記されており、

あからさまな徳川家への無念の想いと御家再興を願う

気持ちが込められたものであったが、願いも空しく、元和3

(1617)年に池田光政が因幡・伯耆の2ヶ国を支配する

ことになると、忠義は池田家の監視下に置かれることと

なった。これは池田家にお預けの処置になったも同然で、

ついには4千石も召し上げられ、わずかに百人扶持だけが

与えられた。そして元和8(1622)年に29歳の若さで

忠義は病死した。墓は大岳院に建てられ、板倉牛洗斎を

はじめとする近臣8人が殉死を遂げた。尚、忠義の法名は

「雲晴院殿心叟賢凉大居士」といい、殉死した8人の

法名にもすべて「賢」の字を付けたところから、彼らは

八賢士と呼ばれた。のちにこれが滝沢馬琴作「南総里見

八犬伝」のモデルになったのではないかといわれている。

またこの墓所には忠義の伯父正木時堯と里見家

家老堀江頼忠も共に埋葬されている。


※里見氏の系図についてはこちらをご参照下さい。

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