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墓 所 名 三浦義明(夫妻)の墓
お墓の様子
所 在 地 神奈川県横須賀市
大矢部1−5−10(満昌寺)

〜コ メ ン ト〜

三浦義明(夫妻)の墓。義明は源家累代の家人として

源義朝に仕えた。義朝が義明の娘を側室として、

長男の義平(のちの鎌倉悪源太義平)が産まれると

血縁的にも源家と結ばることになったが、平治の乱

(1159年)で義朝が討たれると、必然的に三浦一族も

逼塞することを余儀なくされた。治承4(1180)年、源氏

再興の兵を挙げた源頼朝が石橋山合戦に敗れ、行方

知れずとなると、平家の大軍を衣笠城で迎え撃ったが、

兵力の差はいかんともしがたく、形勢不利を悟った義明は、

三浦義澄、佐原義連、和田義盛ら一族を集め、「佐殿

頼朝)よもや討たれまじ、われ源家累代の家人として、

幸い貴種再興の秋に逢ふ。なんぞこれを喜ばざらんや。

今老命を投げうちて、子孫の勲功に募らんと欲す、汝等

急ぎ退去して佐殿の存亡を尋ね奉じるべし」と厳命した。

義澄、佐原義連、和田義盛らは泣く泣く義明を見捨てて

栗浜(久里浜)から安房に落ちのび、その後、義明は自害

したとも、討ち取られたともいわれ、衣笠城は落城した。

いずれにしても義明の己を捨石とした奮戦により、以後、

三浦一族は頼朝に引き立てられ、発展していくこととなる。

尚、義明の墓がある満昌寺は頼朝が鎌倉幕府創設の

礎となった三浦義明の功を称え、追善のため建久5

(1194)年に建立した寺である。頼朝が家臣のために

建立した寺院は、三浦氏のものだけであるといわれており、

いかに頼朝からの信頼が厚かったかが窺い知れると

いえるだろう。(※廟所内には宝筐印塔を中心に、右側に

五輪塔、左側に板碑(観音種子)の三基が並び置かれて

いるが、真ん中の宝筐印塔が義明、五輪塔が義明の

妻の供養塔であるとされている。)

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