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墓 所 名 徳川宗春の墓
お墓の様子
    
所 在 地 愛知県名古屋市
千種区平和公園3丁目

〜コ メ ン ト〜

徳川宗春の墓。宗春は元禄9(1696)年尾張藩主第3代

藩主・徳川綱誠の20番目の男子として名古屋城で

生まれた。奥州梁川3万石の領主となるが、吉宗との

間での8代将軍継承問題で敗れた兄・継友が

享保15(1730)年に急死したため、梁川の領地を返上し、

尾張徳川家を相続した。時は江戸時代半ば、吉宗が

進める「享保の改革」の倹約政策により、商いは活力を

失い、徹底した規制で庶民は苦しんでいた。宗春は

就任直後に「温知政要」を著し、行き過ぎた倹約は

かえって庶民を苦しめ、消費こそが経済の活性化に

つながるなどと主張し、吉宗の掲げる質素倹約を基本

方針とする享保の改革とは正反対の立場を鮮明にした。

宗春は、吉宗とは反対に、娯楽や祭りなどの楽しみを

増やし、庶民の活気を引き出すことで、町の繁栄を

築こうとした。城下に芝居小屋や遊郭を誘致するなど

開放政策を採り、倹約令で火が消えた街は活況を

呈するようになり、その結果、名古屋は発展し、江戸、

大坂、京都に次ぐ都会へと成長した。しかし、それは

幕府の方針とは相いれないものだった。吉宗は使者を

送って宗春を詰問、その際に宗春は「いくら上に立つ者

が倹約を叫んでも、その結果、幕府の金庫にお金が

たまるだけで民衆が苦しむ状況が続くなら、これは

本当の倹約とは言えません。私は華美な生活をしている

ように見えますが、それによって世間にお金が回り、

実は民の助けとなっているのです。事実、町人には

負担をかけず、農民の年貢も増やしていません。民と

ともに世を楽しむ。こうした私のやり方こそ、本当の

倹約といえるのです」と反論した。しかしながら、結局、

宗春のやり方は藩重臣との対立を招き、規制緩和による

風紀の乱れ、藩の借金増などマイナス面も噴出。支出を

続けた財政は悪化、歓楽地なども縮小し、農民・商人に

上納金の割り当てを命じ、民衆の人気を失った宗春に対し

幕閣は失脚を画策、元文4(1739)年、宗春は吉宗から

蟄居謹慎を命ぜられた。宗春への処分は厳しかった。

明和元(1764)年に69歳で亡くなったが、墓石には

なんと金網がかけられたという。この問題の金網は

没後75年にして名誉回復がなされ、撤去されたが、

現在大きな墓石には大戦中の焼夷(しょうい)弾の

跡が生々しく残っている。(※宗春の墓は2010年

7月8日に墓碑修復が行われたとのことである)

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