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墓 所 名 徳川忠長の墓
お墓の様子
所 在 地 群馬県高崎市
通町75(大信寺)

〜コ メ ン ト〜

徳川忠長の墓。忠長は二代将軍秀忠の子で三代将軍

家光の弟。母は秀忠の正室崇源院(於江与の方)。

秀忠夫妻は幼少の頃より才智に恵まれた忠長を寵愛した

ため、忠長が次期将軍になるとの風評があり、危機感を

いだいた家光の乳母春日局が駿府の家康に嘆願した

ことから家康の指示で家光が世子と決定した。しかし、この

ことが原因で家光から疎まれることになったといわれて

いる。その後、元和2(1616)年に甲斐国を領地として

与えられ、寛永元(1624)年には駿府藩主となり駿河・

遠江両国で55万石を領した。また寛永3(1626)年には

従二位権大納言に叙任され、世に駿河大納言と称された。

しかしながら、秀忠の死後、兄の三代将軍家光との

確執から、数々の乱行があったという理由により寛永8

(1631)年、甲斐に蟄居させられ、翌寛永9(1632)年に

なると上野高崎に幽閉され、時の高崎城主安藤重長

による助命嘆願にもかかわらず寛永10年12月6日に

自害させられた。28歳。

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