ご尊名 |
心 宗 行 順 大 行 者 (阿南の行者・新野の行人) |
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寺院名 | 瑞光寺 (曹洞宗) |
系統 | 不 明 | |||||||||||||||||
所在地 | 長野県下伊那郡阿南町新野 | |||||||||||||||||||
ミイラor 即身仏 |
即身仏 | 没年又は 入定年 |
貞享4年(1687年) 2月彼岸 (50歳) |
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入定伝説 | 土中入定 | 通算 訪問回数 |
1 回 | |||||||||||||||||
お寺の様子 |
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ご尊顔 | デ ー タ ー な し | |||||||||||||||||||
阿南町の HPより |
新野の行人様(ぎょうにんさま)は、貞享4 (1687)年に入定しました。標高1000メートルの 新栄山に祀られている行人様の名前は行順。レントゲン 検査の結果、年齢は50歳前後。日本に現存する 16体のうち唯一の禅宗系の即身仏(ミイラ)で、 弥勒信仰の極限の姿を示しています。即身仏になる ために1日に食べたのは、湯飲み茶碗にそば粉 一杯だけ。それで全国を7回も歴訪しながら寺社 仏閣を訪ね歩いて修行を積みました。そして瑞光院に 身を寄せ、裏山に穴を掘って内部に石を詰め、箱を 作ってその中に入りました。箱の屋根に穴を開けて 息ができるように竹筒を差し、「鐘の音の聞こえる うちは生きていると思いたまえ」と約束して入定。 7日目にはうなる声がなくやがて止まりました。 そこで竹筒をとり穴を塗り固めたと、「熊谷家伝記」 には書かれことで、前代未聞の語り草となりました。 |
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俺の感想 コメント |
心宗行順大行者(阿南の行者・新野の行人)は 春と秋の年2回のみ御開帳をするという。もし 日本に現存するすべての即身仏との対面を 果たそうとするのならば、決して避けては 通れない道ではあるが、何とも頭の痛い 問題である。しかも阿南町は旧中仙道と 違ってほとんど馴染みのない信州の南端に 位置していて果たしてどれだけ遠いのかも 想像がつかない。仮にご開帳日に訪ねた としてもおそらく大勢の人が押し寄せる だろうから落ち着いて対面することは できないだろうな…。と、 行く前から何とも複雑な気持ちになって いた。しかしながら、役場に問い合わせを したところ、一つ耳寄りな情報を得ることが できた。それは新野の行人は行人様 奉賛会が管理をしていて奉賛会に 申し入れをすればご開帳の日以外でも 拝観をできるとのことだった。早速私は 奉賛会に問い合わせをして訪ねる日時を 決めた。そして当日、待ち合わせ場所で 奉賛会の副会長をされている方と落ち合った 私は導かれるままに行人様が入定した 新栄山の山頂へと向かった。特に会話を するでもなく、厳かな雰囲気の中、ついに 心宗行順大行者との対面を果たした。 行人様は事前に写真で見ていた通りで やはり青い衣に目が付いた。まぁ〜それは ともかく、私は湯殿山系以外の即身仏 である、行人様には色んな意味でとても 興味があり、色々とお伺いしたいことが 盛り沢山だったのだが、副会長曰く 「私は詳しいことは知らないんですよ」との ことだった。う〜ん、残念。。。かわりに 「行人様」という冊子をもらいその場を あとにした。尚、これまで述べてきた ように心宗行順大行者の管理は行人様 奉賛会が主体となっていて、菩提寺 である瑞光院には行者の位牌と鉄下駄・ 錫杖などの遺品はあるとはいえ、信仰の 主体とはなっていない。あくまで村人が 主体となって共同で信仰組織を作って いるのがこの即身仏の大きな特徴で あるといえるだろう。 |