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墓 所 名 吉良上野介義央の墓(一番右)
お墓の様子
所 在 地 東京都中野区上高田
4−14−1(功運寺)

〜コ メ ン ト〜

忠臣蔵で有名な吉良上野介義央の墓。吉良氏は足利

将軍家
の支族で「御所(足利将軍家)が絶ゆなば吉良が

継ぐ」といわれた名門中の名門で、江戸時代には代々

高家筆頭として朝廷と幕府の間の諸儀式をつかさどった。

天和3(1683)年に高家衆の指導役として高家肝煎の職が

設けられると義央はこの役に就き、幕府の中心において

儀典礼法を主導し、朝廷外交の中心的役割を担ったが、

元禄14(1701)年3月14日江戸城中で勅使接待の事務

執行中に赤穂藩主浅野内匠頭長矩に斬りつけられて

負傷し、同年隠居した。そして翌元禄15(1702)年12月

15日に切腹、改易の処分を受けた浅野内匠頭長矩の

旧臣・大石内蔵助良雄ら赤穂浪士の襲撃を受け殺害

された。(墓石には「元禄十五壬午十二月十五日」と

刻まれていて、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した

史実を裏付けるものである。)尚、この元禄赤穂事件の

発端となった殿中刃傷の原因が不明だったこともあり、

切腹、改易となった浅野内匠頭長矩への同情が

集まり、さらに翌年の赤穂浪士討入事件は泰平の

世に衰えがちであった武士道の鑑として世の人を

感動させ、事件直後から「忠義の士だ。義士だ」と

騒ぎ立てられた。これが芝居の格好の題材となり、

やがて不動の名声をはくした『仮名手本忠臣蔵』が

完成すると、仇役として登場する吉良上野介義央は

強欲非道で冷酷、悪人の極みとして喧伝された。

しかしながら、これらの悪人像は文芸の世界での

ことであり、知行地の三河国吉良荘では築堤や

新田開発などを行った名君とうたわれ、文雅の士

でもあったと伝えられている。尚、義央の墓は

愛知県の吉良町にもある。


※吉良氏の系図についてはこちらをご参照下さい。