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月の丸扇 佐竹氏の家祖、新羅三郎義光(源義光)月の丸扇
 
 
 佐竹氏の家祖、新羅三郎義光(源義光)は、陸奥守鎮守府将軍として前九年の役を

 戦い、その武勇を天下に知られた源頼義の三男である。また、義光の兄には頼義

 共に前九年の役を戦い「天下第一の武勇の士」、「驍勇絶倫にして、騎射すること
 
 神の如し」と称えられた長男の義家と次男義綱がいる。この三人は、当時では珍しく

 同母の兄弟であり、そのためか、兄弟仲がきわめてよかったというような伝説がいくつか
 
 残されている。ちなみにこの三人は源義家、源義綱、源義光というよりも八幡太郎

 義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光と呼ばれることの方が多い。これは、義家

 石清水八幡宮で元服したことにちなんで八幡太郎と称し、次弟義綱が京都の賀茂

 神社で元服したことにちなんで賀茂次郎を称し、三弟義光は大津園城寺(三井寺)の

 新羅大明神で元服したことにちなんで新羅三郎と三兄弟すべてがそれぞれ神号を

 名乗りに冠したものである。(尚、義家の子孫には鎌倉幕府を開いた源頼朝、そして

 室町幕府を開いた足利尊氏などがいる)さて、新羅三郎義光頼義の晩年の子で、

 兄の義家とは15歳以上も歳の離れた兄弟であり、義光だけは前九年の役には
 
 加わってはいない。そのため、二人の兄の武名の陰に隠れて、官途につくのは

 きわめて遅く、永保3年(1083)頃、ようやく左兵衛尉になったらしい。そしてちょうど

 その頃、後三年の役が起こったのである。応徳3年(1086)9月のことである。しかし

 ながら、城柵は堅固で、なかなか落ちず、攻防を繰り返すうちにやがて冬となって

 大雪に降られ、充分な攻城戦の用意が無かった
義家の軍は飢えと寒さのために多くの
 
 凍死者を出し敗北した。翌年寛治元年(1087)兄・義家の苦境を知った義光
義家

 援軍として出陣することを朝廷に願い出るも勅許を得ることができなかったので、

 やむを得ず、官職を投げ捨てて、雪深い出羽に下向し、兄・義家の軍に参陣した。

 弟の情に感激した義家は、まるで故入道殿(父、頼義)が生き返られたようだと鎧の

 袖を濡らし、早速義光を副将軍とした。以来、この義光のエピソードは天下の美談

 として永く語り継がれることとなり、後年、源頼朝が平家打倒の兵を挙げた際に弟の

 義経が参陣してきた時には、義経を新羅三郎義光になぞらえて、しきりに喜んだと
 
 いう話が吾妻鏡などにも残されている。(戦前までこの話は国定教科書にも美談として

 描かれていた)なお、せっかくなので、奥州後三年記に記るされている原文を以下に

 紹介することとする。
 

 『将軍の舎弟左兵衛尉義光、おもはざるに陣に来れり。将軍にむかひていはく、

 ほのかに戦のよしをうけたまはりて、院に暇を申侍りていはく、義家夷にせめられて

 あぶなく侍るよしうけ給る。身の暇を給ふてまかりくだりて死生を見候はんと申上るを、

 いとまをたまはらざりしかば、兵衛尉を辞し申てまかりくだりてなんはべるといふ。義家

 これをきヽてよろこびの涙ををさへていはく、今日の足下の来りたまへるは、故入道の
 
 生かへりておはしたるとこそおぼえ侍れ。君すでに副将軍となり給はヾ、武衡、家衡が

 くびをえん事たなごヽろにありといふ。』


 その後、義光は後三年の役で武功を立て、累進出世をして刑部丞となった。また、

 常陸介に任じられ、佐竹郷を領して常陸北東部に勢力を伸ばし、地盤を固め、孫の

 昌義の時代になり佐竹氏を名乗ることとなるのである。