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墓 所 名 織田信孝の墓
お 墓 の
様 子
 
所 在 地 愛知県美浜町大字野間字東畠
50(大御堂寺(野間大坊))

〜コ メ ン ト〜

織田信孝は織田信長の三男で、本能寺の変で信長が

討たれた後、秀吉とともに山崎の戦いに総大将として参戦し、

仇である明智光秀を倒し、見事に父の無念を晴らしましたが、

清洲会議では秀吉に主導権を握られてしまい、信長の

弔い合戦の総大将であったにも関わらず、織田家の後継者は

甥の三法師に決まりました。その後、信長が本能寺の変で

倒れたことをよいことにそれまで信長に受けた恩を忘れ、

天下取りを目指した日本史上最大級の大逆臣
豊臣秀吉

(当時は羽柴秀吉)に憤慨し、織田家宿老格の柴田勝家・

滝川一益らと結び、三法師を擁し秀吉に対して挙兵するも、

秀吉の迅速な行動により、降伏せざるを得なくなり、この時

秀吉は信孝の母と娘(秀吉にとってはついこの間までの主君

信長の妻と孫)を人質に取るという前代未聞の不埒な

行動を行いました。そして、賤ヶ岳の戦いが起き、再度信孝が

秀吉の兵を挙げた時に秀吉は人質の信孝の母と娘、つまり

旧主信長の妻と孫を何の迷いもなく無残にも磔にして

処刑するという大蛮行をやってのけます。 結局、信孝も頼みの

柴田勝家が北の庄城で秀吉に滅ぼされると、信孝一人では

抗し難く再び降伏をしますが、今回は許されず尾張国知多郡

野間内海荘の大御堂寺(野間大坊、平安時代末に源頼朝

の父、源義朝が家臣に裏切られて暗殺された場所)に送られ、

自害をして果てました。その時に信孝は


昔より 主(あるじ)内海(討つ身)の

野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前



という辞世の句を残しました。

(「内海」は「討つ身」とかけています。)


「現代語訳」

この内海の野間の地は、平治の昔、主人源義朝が家来の

長田忠致の卑劣な裏切り行為によって殺された場所だが、

長田忠致が結局非業の最期を遂げたようにお前にも必ず

天罰が下り「主人殺し」の報いを受ける日がくるだろう。

古来よりそうして主君を討った逆臣は永くは続かん、

報いを待つが良い、羽柴筑前よ。


〜すざましいまでの信孝の怒りと無念の気持ちが

伝わってきます。美しくないかもしれませんが、

心を「強く」そして「激しく」打つものがあります〜


「余談」

その後も、秀吉は謀略の限りを尽くし、信雄(信長次男)

三法師(信長嫡孫)を排除し、旧織田家の天下を簒奪

するという悪行の末に関白となりました。秀吉は現在では

太閤記などで良いイメージを抱きがちですが、秀吉

行ったことは紛れもなく下克上の最もたるもので、冷静に

考えれば、乱世の梟雄として悪名を轟かせている

松永久秀、斉藤道三らとは比べ物にならない大悪人で

徳川家康のそれ(豊臣家を滅ぼす)ともまったく違うものです。


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