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墓 所 名 崇徳天皇陵(白峯陵)
お墓の様子
所 在 地 香川県坂出市青海町

〜コ メ ン ト〜

崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子で母は待賢門院璋子

である。保安4(1123)年、5歳で立太子し、即日、鳥羽

天皇の譲位により践祚したが、これは曽祖父である白河

法皇の意によるものであった。(実は崇徳は白河法皇が

璋子に生ませた子で、鳥羽上皇は崇徳天皇のことを

「叔父子」と呼んでいたとの説もある「古事談」)当初は

白河法皇の執政下でその庇護のもとにあったが、大治4

(1129)年法皇が崩じて鳥羽上皇の院政が始まると

情勢は一変して厳しくなり、永治元(1141)年、鳥羽

上皇の意により異母弟である近衛天皇に譲位させられ、

さらに近衛の死後も後白河天皇が擁立され、その子・

守仁親王が立太子するにおよんで、自らの皇子への

皇位継承の望みを絶たれた。このため後白河と対立する

ようになり、保元元(1156)年藤原頼長と結び、源為義らを

味方につけて後白河を討とうとする(保元の乱)も敗れて

讃岐国に流され、失意のうちに崩じた。崇徳上皇の配所

での生活は様々な説話集にみえるが、軟禁生活の中で

上皇は仏教に深く傾倒し、一心に毎日お経を写し、三年

かかって多数の写経を京都に送ったが、朝廷はこのお経

には呪いがこめられていると考え、これを送り返してきた

ため、上皇は深い怨みを持ち、自身の舌を食いちぎり、

その血で、返されたお経に「日本国の大魔縁となり、皇を

取って民とし民を皇となさん」と呪いの言葉を書き記し

海に沈めたともいわれ、死後は菅原道真、平将門とともに

日本三大怨霊の一人として世人に恐れられた。尚、歴代

天皇の御陵で畿内以外の地方にあるのは淳仁天皇の

淡路陵、安徳天皇の下関阿弥陀時陵とこの白峯陵の

3陵のみである。

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