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佐竹家と武田家の嫡流争い(佐竹義重×武田信玄
 
 
 永禄11年(1568)武田信玄は義重に書状を送り、北条氏の攻略について協力を
 
 呼び掛けた。これが縁で義重と信玄との交流が始まり、同盟に向けて交渉が行われ

 たが、その際の佐竹方の書状の書式のことで信玄の方から「佐竹も新羅三郎義光

 末葉と聞くが、武田家はその嫡流で、義光公が朝廷から得た甲斐国守護を代々

 続け、義光秘蔵の旗や楯無の鎧も譲り譲り受けている。佐竹は義光公の庶流なのに、

 嫡流に対して無礼である。」と主張してきたのに対し、義重は「佐竹の家祖、義業は、

 義光の長男だが、義光の兄の加茂次郎義綱に嗣子がいないため、義綱の家に

 養子に入った。そのため弟の義清が義光の跡を継いで武田氏の祖となった。これに

 より家宝は武田に伝わったが、義綱は義光の兄であり、義業は義清の兄だから、

 嫡庶の別ははっきりしており、当方の書式に非礼はない」と返書を送るという系図

 争いがあった。上記のようにこの時代、その家の格式、書札礼は大変面倒なもので

 あった。この書式のことだけが原因ではないが、結局佐竹義重と武田信玄との同盟は

 実現しなかった。(しかし、その後、武田家も織田信長に滅ぼされたため、ついには

 争う相手すらもいなくなったのである。)