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墓 所 名 伊達成実霊屋(伊達成実の墓)
お墓の様子
所 在 地 宮城県亘理町
泉ケ入88(大雄寺)

〜コ メ ン ト〜

伊達成実の墓。成実は伊達一門(父は伊達実元

(伊達稙宗の三男)で、母は伊達晴宗の女)で、片倉

景綱とともに伊達政宗の側近として人取橋合戦、

摺上原合戦などで軍功をあげ、政宗に重用された。

豊臣秀吉による小田原攻めに際しては、参陣して

臣従すべきと主張した景綱に対して、成実は秀吉との

全面対決を主張し激しく対立した。(結局政宗は、

成実を留守居役にあてて、小田原に参陣した)

その後、政宗が国替えになるとこれに伴い、角田城に

移ったが、文禄2(1593)年に突如政宗のもとを去り、

高野山に出奔した。(出奔の原因については、政宗の

成実に対する処遇に不満があったからではないか

ともいわれているが、よくわかっていないという)

その際に徳川家康や上杉景勝から高禄をもって

家臣に誘われるが、これを固辞した。片倉景綱の

説得で慶長5(1600)年に帰参、慶長7(1602)年には

亘理城主となって伊達一門に復帰した成実は、政宗・

忠宗と二代にわたる藩主の補佐役を務め、大坂の陣

にも出陣、ときには藩主に代わって江戸に上ることも

あったという。79歳と当時としてはたいへん長寿だった

成実は、正保3(1646)年に没し、大雄寺に葬られ、

のちに霊屋が建立された。著書に政宗の一代を

記した「成実記」がある。

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