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墓 所 名 佐々木道誉(高氏)の墓
お墓の様子
所 在 地 滋賀県甲良町正楽寺4
(勝楽寺)

〜コ メ ン ト〜

佐々木道誉(高氏)の墓。道誉は佐々木氏の庶流京極家の出で、

初め北条高時に仕え、高時から一字を与えられ高氏と称した。

嘉暦元(1326)年には高時の出家に従って剃髪、道誉と称した。

後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐を企てた元弘の乱に失敗し、隠岐に

配流となった際にはその警固を勤めた。また幕府の命により元弘の

乱の中心人物だった北畠具行を斬首させたのも道誉である。

元弘3(1333)年隠岐から脱島して船上山で挙兵した後醍醐天皇の

綸旨に呼応し、足利尊氏と共に六波羅探題を滅ぼした。この時、

六波羅探題北方の北条仲時は南方の北条時益と共に光厳天皇、

後伏見・花園両上皇を奉じて鎌倉を目指したがこれを阻み、

仲時以下432名を番場の蓮華寺で自害せしめたのも道誉で

あった。道誉は建武の親政に参加したものの、中先代の乱を境に

尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻すとこれに応じ、以後、一貫して

足利氏(武家方・北朝方)に仕えた。このように道誉は鎌倉幕府の

滅亡と室町幕府の創設に大きく関わり、足利将軍家(尊氏・義詮)

を補佐して幕府の基礎固めに尽力し、終始幕府の中枢にあって

権勢を誇った。中でも、三管(管領=斯波細川畠山

四職(侍所所司=赤松、一色山名、京極)の要職に佐々木

京極氏を押し上げたのはひとえに道誉の功績であるといえる。

また道誉は豪放無比な言動から旧来の権威を軽んじ、華美な

服装や奢侈な振る舞いを好む婆佐羅(ばさら)大名の典型と

しても名高い。しかし、単に乱暴というわけではなく、古典芸術、

茶道、華道、能楽、連歌など造詣芸能・文芸にも堪能な風流の

武将でもあり、後世日本芸能の元祖といわれる教養文化人

でもあった。(尚、道誉の墓とされるものは米原市の

清滝寺にもある


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