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墓 所 名 足利晴氏の墓
お墓の様子
所 在 地 千葉県野田市
関宿台町57(宗英寺)

〜コ メ ン ト〜

第四代古河公方足利晴氏の墓。(晴氏の晴は室町幕府

第十二代将軍義晴の一字拝領。)晴氏は大永元(1521)

年頃に父・高基の意向で北条氏綱の娘と婚約をするが

これを履行せず、重臣簗田氏の娘を妻に迎えたため、

父・高基と対立し、その隠居を早めさせた。天文7

(1538)年、北条氏綱の援助をえて、父・高基の代から

対立を続けていた叔父である小弓御所足利義明

これをかつぐ里見義堯と下総国国府台で戦い、義明

敗死させた。(国府台合戦)尚、この戦いで北条氏の

力を借りたことから、以後、北条氏からの強い干渉を

受けることになり、ついに氏綱の娘を夫人に迎えざるを

えなくなったが、氏綱の死後に子の氏康と断交し、関東

管領山内上杉憲政・扇谷上杉朝定の両上杉氏に味方

して、公方晴氏、関東管領上杉憲政をはじめとした、

上野、下野、北武蔵、常陸、下総などの連合軍、実に

その数8万余騎で北条方の河越城を攻めるも、わずかに

8千余騎の北条氏康軍の前に扇谷・上杉朝定が敗死

するなどの大敗北を喫し(河越合戦)晴氏は古河に逃げ

帰った。孤立した晴氏は徐々に氏康に圧力をかけられ、

ついに天文21(1552)年12月に長男で嫡子としていた

藤氏を廃嫡し、氏綱の娘を母とする義氏に家督を譲った。

その後、天文23(1554)年に氏康を討とうとして画策を

するも、反対に古河城を攻め落とされて相模国

波多野に幽閉され、のちに下総国関宿に隠退、

永禄3(1560)年5月27日に没した。


※古河公方足利家の系図についてはこちらをご参照下さい。

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