ご尊名

光 明 海 上 人
寺院名 蔵高院
(曹洞宗)
系統 大日坊系?
(湯殿山系)
所在地 山形県西置賜郡白鷹町大字黒鴨
ミイラor
即身仏
即身仏 没年又は
入定年
嘉永7年(1854年)
1月24日
入定伝説 土中入定 通算
訪問回数
1 回
お寺の様子
ご尊顔
お寺の
パンフレット
より

山形県白鷹町の蔵高院にある「光明海」の墳墓が
発掘されたのは、昭和53年10月11日〜13日の
3日間であった。これは白鷹町教育委員会が文化財
調査委員の協力を得ながら、新潟大学医学部の小片保教授
を中心として学術調査されたものである。湯殿山行者
光明海自身についての事蹟の手がかりは、昭和10年
4月14日の大火(26棟全焼、現在1戸の残留もなく
廃村)、ゆかりの横沢儀兵衛家直系の子孫が旧満州で
死亡等で伝承と墓碑以外になく、文書々類は蔵高院の
過去帳のみで、今のところ死亡した年月日、嘉永7
寅年正月20日(1854)を知るのみである。
光明海墳墓発掘調査は「百年たったら掘りだしてくれ」
と遺言したという地元の伝承にもとづいて、予備調査・
試掘調査を経て本発掘されたものである。江戸時代に
入定した即身仏調査として、もちろん全国で初めてで
あり、修験道、特に湯殿山信仰の実態を知る上で、
実に貴重な存在となるとともに、江戸時代末期の
入定窟(玉石積み)の全貌が明らかになった
こどで、学術的に特に評価されている。発掘された
遺骸は、124年という年月が経ちすぎて
いたために一部ミイラ化されているに
すぎなかったが、発掘関係者により光明海さまの
意を継ぎ永久的に保存安置奉る旨結論が出された。
「生きながら仏になる」すなわち「即身仏」と
なるため、五穀あるいは十穀を絶ち、草木だけを
食べて生きる「木食行」をし、1千日、2千日、
3千日、あるいは5千日もの山籠りで難行苦心を
重ね、その後一生を通じて木食ですごし、民衆の
悩みを救い、社会に貢献した光明海さまの遺骸は、
新潟大学に依頼され化学処理をほどこし、即身仏
として衣をまとい法冠をかぶり、ガラスケースの
中におさめられたものである。

俺の感想
コメント

2004年12月。ついに転勤の辞令が出た
私は、約4年半暮らし、慣れ親しんだ仙台
(東北)を離れて横須賀に戻ることになりました。
そして約1ヶ月後の正月早々には、実際に
引越をしなければなりません…。私に
残された日々はあと1ヶ月余り…もう残された
時間は少ない…悔いの残らないように
しなければ…そして、そんな中、熟考を
重ねた私は、その頃、ちょうど興味を
持ち始めていた即身仏巡りを少しでも
推し進めようとの思いに至りました。
というのも、日本の即身仏のメッカは
湯殿山であり、山形県には湯殿山系の
即身仏が実に8体も現存しているので、
「いずれは日本に現存する即身仏
(全部で17体)すべてとの対面を
成し遂げよう」と考えていた私にとって、
湯殿山を抱える山形県は、どうしても
避けて通れない道だったからであります。
しかし、その時点で私が対面した
山形県内の即身仏はわずかに3体のみ
でした。私は残されたわずかな
時間と戦いながら、残り5体の即身仏と
対面をするべく悪戦苦闘をしたのでありました。
そして結論から先にいえば、私は未対面の
即身仏のうち、4体とは対面することが
できましたが、わずかに1体だけは、ついに
対面することが叶いませんでした。それが
この光明海上人でした。あの日…光明海
上人の拝観をしたいと電話で問い合わせた
私は、お寺の方から、「冬は例年大雪に
阻まれてお堂に近付くことができなく
なってしまいますので、申し訳ありませんが、
拝観をしていただくことはできません、春に
なって雪解けしたらまたご訪問下さい」と
言われ、私は心の中で「その頃に俺は
仙台にはいないんだよ…」と呟きながら、
それでも尚、諦めることができずに、
蔵高院まで行ってみることにしました。
その後…蔵高院に辿り着いた時は、もう
すっかり日が暮れて辺りは真っ暗に
なってました。しかしそこには確かに蔵高院が
あり、即身仏安置堂との看板がありました。
あとホンのわずか、それこそ目の前という
ところまで辿り着きながらついに対面する
ことならず…私は無念の涙を飲んだので
あります。もうここを訪ねる機会に恵まれる
ことはないだろう…そんなことを
思いながら…が!話しはここで終わり
ませんでした。この日以降も不屈の闘志を
持ち続けていた私は、ついにその1年半後の
2006年7月19日に蔵高院を訪ねて
光明海上人との対面を果たしたので
ありました!

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