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墓 所 名 北畠顕家の墓
お 墓 の
様 子
所 在 地 大阪府大阪市阿倍野区王子町3−8

〜コ メ ン ト〜

北畠顕家の墓。顕家は北畠親房の長男で建武政権下では

陸奥守として後醍醐天皇の皇子・義良親王(のちの後村上

天皇)を奉じて、父・親房とともに奥州に下向、多賀城を国府

として東国経営に努めた。建武2(1335)年11月には鎮守府

将軍に任命されている。同年に起こった中先代の乱を平定

した足利尊氏が鎌倉で建武政権に反旗を翻し、新田義貞を

破って西上するとこれを追撃して鎌倉、そして京都へと攻め

上り、一旦は京を占領した足利尊氏を九州へと敗走させた。

建武3(1336)年3月には再度奥州へ戻り、奥羽・関東の

足利方の攻勢を支えるのに腐心したが、九州に逃れた足利

尊氏が反転攻勢して東上し、これを迎え討った楠木正成を

自害させ(湊川の戦い)、同年6月に光厳上皇を奉じて京を

奪うと、延元2(1337)年8月に再び義良親王を奉じて奥州

軍を率いて西上、利根川にて足利軍を破り12月には鎌倉に

入った。翌延元3(1338)年正月に鎌倉を発向した奥州軍には

途中で宗良親王、北条時行らが合流し、美濃青野ヶ原の

戦いで足利の大軍を撃破した。しかしながら、なぜか顕家は

この余勢をかって京都に向かうことなく、にわかに進路を

変えて南下して伊勢に後退し、次いで伊賀をへて大和に

入った。当初、近江の新田義貞軍と合流するはずだった顕家の

迂回の理由を「太平記」では義貞に功を奪われるのを嫌った

からだと説明している。いずれにしても顕家が一気に京都へ

攻め上らなかったのは、その後の戦局をわけ、こののち顕家は

各地を転戦するも利あらず、ついに同年5月22日に高師直軍

に敗れ、和泉石津にて敗死した。享年21歳。尚、死の直前の

5月15日付で建武政権の政道を痛烈に批判した「顕家諫奏」

を死を賭して後醍醐天皇に上呈したことは有名である。


※顕家諫奏は要約すると以下の通りである。

一、西府(九州)と東関(関東)を平定するために人を
   遣わし、あわせて山陽、北陸等に藩鎮を置くこと。
 
一、諸国の租税を免除して民力を休め、倹約を行うこと。
 
一、官爵の登用は慎重に行うこと。
 
一、公家や僧侶に対する恩賞は慎重を期すこと。
 
一、臨時の行幸や宴遊は控えること。
 
一、法令に尊厳をもたせること。
 
一、政治に無益で国政に害をなす者を除くこと。
 
そして最後に「先非を改められず、太平の世に
戻す努力をしないのであれば、私は陛下の
もとを去って隠退する」とし、「書は言を尽さず、
言は意を尽さず。伏して願わくば、いにしえの
聖人の戒めに照らし、下愚(顕家)の懇情を
察したまえ。謹んで奏す」と結んでいる。

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