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「一之宮とは」
越中国には一之宮とされる古社が四社ある。

もちろん日本全国で最多の
異例事態で、

そのいずれもが
ほぼ匹敵するほどの格式を

備えている。なぜそのような
特殊事情が生じた

のかはよくわかっていないが、一之宮そのものは

法律や制度で決められたものではなく、平安

時代から鎌倉時代にかけて名実ともにトップの

神社が一之宮の地位を獲得するケースが

ほとんどである。越中の場合には
圧倒的に

優勢な神社がなかった
というのが乱立した

一番の理由だと考えられている。例えば後世の

史料によると次のような説明がされている。

「奈良時代も中頃をすぎると、能登が越中から

分立した。その結果、もとの越中にあった

気多大社が能登に移って能登の一之宮に

なると、越中一之宮は空席となってしまった。

それまで二番手に位置していた射水神社

昇格して一之宮となったが、気多大社によって

勧請されて越中に新たにできた気多神社

射水神社に対抗して一之宮の地位を争う

ことになった。その後、国府が射水郡から

砺波郡へと移転となり砺波郡の高瀬神社

一之宮を主張するようになり…」


だが、そもそも一之宮は平安時代から

鎌倉時代にかけて成立したと考えられて

いることから、奈良時代の能登分立を

根拠にすることはあまり説得力があるとは

思えない。また、南北朝時代の説話集である

「神道集」には越中国一之宮は
立山権現

(雄山神社)
と記されている。結局のところ、

越中に乱立する一之宮の四社のうち、どの

神社が一之宮か
はっきりとした確証を欠く

というほかないのが実情である。


『〜越中国の場合〜』