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墓所名  英祖王陵(浦添ようどれ・西室) 別館のブログへ
お墓の
様子



動 画
所在地  沖縄県浦添市仲間2−479

〜コ メ ン ト〜

英祖王の墓(浦添ようどれ・西室)。英祖王は天孫氏の後胤とされる恵祖世主の嫡子で母が日輪を夢見て

妊娠したことから日子(テダコ)と呼ばれた。学を好み長じるとその名声は国中に響き渡った。時は義本王

(舜天王統の第三代国王)の治世だったが、飢饉や疫病が多発して国が乱れたため、英祖が摂政として

国政を執ること7年、国内は大いに治まったといい、ついには義本王から禅譲され王位を継いだ。

英祖王はその名の通り英明の誉れ高く、在位中に琉球王国は富み、国力は充実したという。主な業績

としては「久米島、慶良間諸島、伊平屋島、奄美大島などが入貢したこと」「琉球国で初めての仏寺

である極楽寺を創建したこと」「浦添ようどれ(極楽陵とも言われる)という王墓を築いたこと」などが

挙げられる。また一説には琉球にも元寇(蒙古襲来)があり、英祖王が撃退したとも伝えられている。

これは中国の正史である「元史」の211巻に1292年と1297年に『瑠求』に武力侵攻して撤退したと

書き残されているためである。ちなみに琉球には同時代の文献資料などは残されていないが、後世

(第二尚氏時代)に作られた琉球の正史である「中山世譜(1700年代に完成)」には英祖王が

蒙古軍を撃退したということが記録されている。但し、この「元史」に出てくる「瑠求」が現在の琉球

なのか台湾なのかについては諸説あり「中山世譜」の記述についても「元史」の記述を参考にして

書かれたもので史実ではないとの説もあり、真相は不明としかいいようがない。尚、英祖王の陵墓

である浦添ようどれは感淳年間(1265年〜1274年)に築かれたものとされ、その後、14世紀後半

〜15世紀前半に石垣がめぐらされ、さらに1620年には浦添出身の尚寧王によって修築が行われ、

英祖王陵(西室)の隣に尚寧王陵が造成された。さらに現在では浦添城跡のガイダンス施設と

して2005年に「浦添グスク・ようどれ館」がオープンし『浦添ようどれの西室(英祖王陵)内部の

様子が実物大で完全・完璧に再現されたもの』が展示されているので、一見の価値がある。